北斎と広重 ② | Z ライフ

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こんばんは


前回の続きで、香雪美術館で開催中の歌川広重の作品を観ています。


「東海道五拾三次之内」の大ヒットにより、広重は一躍、風景画の名手として知られるようになりました。

多くの版元から、東海道の新シリーズの依頼が舞い込み、同時に江戸土産として最適な江戸名所シリーズを次々に刊行していきます。


東都名所 高輪二十六待遊興之図 天保12~13年(1841~42)
旧暦7月26日の夜に月の出を待つ年中行事で賑わう高輪の様子。

江戸名所之内 永代橋佃沖漁舟 天保5~7年(1834~36)

江戸名所 湯しま天神社 天保5年(1834)

東都名所 日本橋魚市 天保12年(1841)

東都名所 霞ヶ関全図 天保5~7年(1834~36)
坂を中心に、右が広島は藩浅野家上屋敷、左が福岡藩黒田家上屋敷。それまでの浮世絵で画題の中心に大名屋敷をすえることはありませんでした。

江戸勝景 よろゐ渡し 天保6~10年(1835~39)
鎧(よろい)の渡しは日本橋川にあった渡し場でこの界隈は各種の問屋が建ち並んだ江戸の大動脈と言える場所でした。

江戸勝景 虎之門外之図 天保6~10年(1835~39)

江戸近郊八景 小金井橋夕照 天保8~9年(1837~38)

江戸近郊八景 行徳帰帆 天保8~9年(1837~38)

江戸近郊八景 芝浦晴嵐 天保8~9年(1837~38)

江戸名所三つのなかめ 芝増上寺雪中 天保10~13年(1839~42)

両国納涼大花火 弘化~嘉永期(1844~53)

忠臣蔵 三段目 天保期(1830~44)

忠臣蔵 夜打二 乱入 天保期(1830~44) 

忠臣蔵 夜打四 引取 天保期(1830~44)

忠臣蔵 夜打六 焼香場 天保期(1830~44)


嘉永2年(1849)4月18日、葛飾北斎は浅草聖天町(現在の台東区浅草)遍昭院境内仮宅で90年の長い生涯を閉じました。その最期を看取った娘の阿栄(あえい)が、北斎の門人に送った手紙によれば、北斎は死の間際、あと10年、せめて5年の命を与えてくれれば、本物の絵師になることができるのにと言い残したといいます。 
90歳という年齢で、亡くなる時までもっと上手に絵を描きたいと願った のでした。

北斎の没後、広重は、富士山を主題とした「不二三十六景」「富士三十六景」を制作しています。それらを手がけるにあたり、「富嶽三十六景」を意識したことは間違いありません。他にも、各地からの富士山の眺望をまとめた「富士見百図」の序文で、広重は、北斎の脚色した風景とは異なり、見た風景をそのまま描いたと述べており、ここでも対抗心を明かしています。

安政3年(1856)に広重は還磨を迎え、剃髪(ていはつ)し法体(ほったい)となりました。(仏門に出家しました。) 
そして、安政2年10月2日に発生し、大きな被害をもたらした安政江戸地震から復興しゆく江戸の街並みを描いた「名所江戸百景」シリーズの制作を、新興の版元・魚屋栄吉のもとで開始します。
遠近を強調し、それまで にない斬新な構図を取り入れるなど、選暦を越えてもなおひたむきに新たな風景画への挑戦を続けていったのです。
それは、死の間際の北斎の願いとも重なる姿勢でした。


安政3年(1856)から刊行が始まった「名所江戸百景」は、百景の名の通り、一大シリーズとなり広重没後の安政6年まで、弟子の二代広重の1図を追加して119図が刊行されました。
シリーズの内、富士山を含む図は18作品にものぼります。当時は、江戸の町のいたる所で富士山を望むことが出来たのです。


名所江戸百景 山下町日比谷外さくら田 安政4年(1857)

名所江戸百景 するかてふ 安政3年(1856)

名所江戸百景 目黒元不ニ 安政4年(1857)

名所江戸百景 深川万年橋 安政4年(1857)

名所江戸百景 市中繁栄七夕祭 安政4年(1857)

名所江戸百景 鉄砲洲稲荷橋湊神社 安政4年(1857)

富士三十六景 東都お茶ノ水 安政5年(1858)

安政6年(1859)に刊行の『富士見百図』は、さまざまな場所から富士山を見た図様を描いた絵本です。残念ながら、広重の急逝により初編1冊のみで終了してしまいました。かつて10歳で「三保松原図」を描いた広重が還暦を迎え、北斎を意識した「富士三十六景」『富士見百図』などの富士山に関わる作品を刊行し、さらにそれらが遺作となったことは、 何かしらの運命的なものを感じずにはいられません。


北斎と広重はこれでおしまいです。

 



ではでは