【「外」を知らない世代】
前回の続きです。
C・W・ニコルさんという、長野県の黒姫という場所でアファンの森という森の開発というか、再生事業を行っている方と、解剖学者で『バカの壁』の著者、養老孟司さんの対談本で、『「身体」を忘れた日本人』という本が最近(4年ほど前)出版されました。
その中でニコルさんは、いわゆる学級崩壊を起こす子や、そのレベルではなくとも集中力が続かなかったり、すぐキレたり、友達をうまく作れない子たちは「自然欠乏症候群」なのではないかと指摘しています。
西洋ではポピュラーになりつつある考えだそうです。
養老孟司さんはそれに対し、昔は自然の世界(山や川で遊ぶこと)と人間の世界(学校など)との二つがあり、喜びと悲しみには、自然の世界での喜び(きれいな景色がみえたなど)と悲しみ(ケガをしたなど)、人間の世界での喜び(褒められたなど)と悲しみ(喧嘩した、苛められたなど)の4種類があったが、それが今の子たちは人間の世界しかないから、人間の世界での喜びも悲しみも2倍になってしまっているのではないかと言います。
昔は学校で嫌なことがあっても、自然の中へいけばそれっきりで、関係がなかったと。
でも今は、それがずっとついて回ると。
なるほどなと思います。
少し拡大すると、遊び場がないことにも繋がっていきそうです。
今の子たちは自分が慣れているコミュニティーしか無く、そのコミュニティー外の「よく知らない誰か」がいるという状況を知らず、その慣れたコミュニティーの外の世界での情緒が育まれていないのかもしれません。
だから知らない人にはどう接していいかわからない。
あいさつすらまともに出来ない子も大勢います。
そして言葉数が少なく、どちらかというと引っ込み思案な子が増えているように感じています。
また、嫌なことがあれば、それを発散させてくれる場所が周りにないので、いつまでもそのことが頭の中に残ってしまう。
塾でキャラが変わる子がいるという話を聞いたことがあるでしょうか?
学校ではおとなしい子が塾では別人のように明るく活発に話をするというような話はよく聞きます。
そういう子は学校外の発散する場として塾を利用しているのかもしれませんね。
私の先輩に奇人の類に属する方がいるのですが、言動が並はずれていたせいでしょうが、その方は中学校の時はいじめられていたそうです。
その方が先日「俺はいじめられていたけど、どうでもよかった。だって俺には塾があったし。塾では数学で俺に勝てる奴なんていなかった」と話していました。
外の環境は「ほかの居場所」という意味と「外の世界での情緒を育む」という二つの意味があるようです。
その方は塾が居場所と思えたから良かったでしょうが、塾には同じ学校の子もたくさんいます。
そう割り切れない場合も多くあるでしょうね。
今の子たちは自然の世界が無くなり、人間の世界の重さが2倍になっていて、さらにその人間の世界さえもが、地域というコミュニティーが無くなり狭くなってしまっているようです。
そうなると、子どもたちの抱える様々な悩みは相当に深くなるように思います。
外に出ようにも、そういった環境は周りにはありません。
結果どうなるでしょうか。
ネットの世界に、バーチャルな世界へ流れるしかありません。
ネットにはまる子の中には居場所を求めるために、現実の嫌なことを忘れるためにのめりこんで行っている子は多くいるはずです。
自覚はないでしょうが、生きづらい世の中だなと感じますし、可哀想な気がしています。
〔続きへ〕