承認を求める社会⑤ | ZENT進学塾

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【満たされない渇き】

 

前回の続きです

 

ではなぜこのように所属することと承認されることに飢えているのでしょうか。

 

考えられるのは二つ。

 

一つ目は先週でも似たようなことに少し触れたのですが、ラフさだと思います。

 

現代社会は所属コミュニティーが現実社会だけでなく、ネット空間上に広がり、一方で地域コミュニティーは崩れていて、不安定なものになっています。

顔も知らない、実名も知らない人の集団とは、実のところ何一つ実体はないのと同じで、そこではつねに流動的に人が入ったり、抜けたりしていきますが、コミュニティーそのものに重大な変化が起こるわけではありません。

また、自分もその集団にとって顔も知らない誰かでしかありません。

 

ミラン・クンデラ著の『存在の耐えられない軽さ』では、タバサという女性が、主人公のトマーシュにとって「代替可能な存在なのではないか」ということに悩みます。

その中で描かれているほど重たいことではないにせよ、自分は唯一無二ではない、いくらでも代替可能な存在であるということを、無意識のうちに感じてしまっていることは事実だと思います。

 

ただでさえ、思春期の人間は過剰な自己意識の中で、自分が周りからどう見られているかを重視します。

 

自分が周りにとってどのような存在であるかを意識するのです。

特別な存在でありたいと願う(あるいはそうであると考える)気持ちも強く持っています。

 

そういった子たちにとって、代替可能であると見える状況はあまり気持ちの良いものではないでしょう。

 

ですが、ネットコミュニティーはそういう空間です。

そして、その中で所属欲求と承認を得ることに慣れてしまったから、いつまでも満たされない承認欲求が残るのではないでしょうか。

とはいえ、それを自覚している人はいないでしょうし、ここまで深刻な不安定さを抱えてしまっている子も少ないでしょう。

 

本当に深刻なのはもう一方の理由だと思います。

 

それは、自信を確立する評価軸が崩れているということです。

 

以前は勉強ができたり、絵がうまかったり、運動が出来たり、家柄が良かったりなどといった客観的で絶対的な要素で保てたのですが、今は違うようです。

そういったものでは自信が確保できなくなっています。

繋がっていることとも関連があるように感じます。

 

昨今使われ始められた言葉に「コミュ力」というものがあります。

 

みんなが使っていながらその意味はとても漠然としているものです。

 

ここから派生した言葉で以前触れた「コミュ障」などの言葉もありますね。

 

企業の就職活動の様子などをみていても、コミュ力は非常に重視されています。

 

端的に言ってしまえば、このコミュ力とは、空気を読む力、人をいじる力、笑いを取る力です。

これらの力はお笑い芸人を手本として学び取ると、斉藤環さんは言います。

 

さらに、斉藤環さんは、この、お笑い芸人が演ずるテレビ上での作法を学校などの教室空間で再現しているといいます。

 

承認されることは、誰からでもいいというわけではありません。

思春期をむかえた人は親からの承認には意味を感じません。

同じクラスの人や、部活の仲間などからの承認欲求やそこへの所属意識を強く持ちます。

異性からの承認は最も価値があるようです。

 

学校の教室を支配しているのは「空気」です。

その空気の中でいかにその空気を壊さずに、その空気乗っかりながら自分のキャラを演じるかが重視されます。

その空気に一番うまく乗り、クラスの中心になる人ほど、異性からモテ、周りにいつも誰かがいて、自分が何かに所属している感覚と承認されている感覚とが満たされます。

 

 

昔から日本は空気の文化で、誰かが物事を主体的に決めている様で、実は誰も決めていない。

なんとなくの流れで、空気で決まっていると言われます。

最近はその空気を読むことがあまりにも重視されすぎているように感じています。

 

一昔前にKYという言葉が流行りました。

あのころからでしょうね。

異常に空気を読むことが重視されるようになったのは。

 

なぜこのようにコミュ力を、空気を読むことを重視するようになったのでしょうね。

私は正確なことはわかりませんがネットの普及と関連がありそうです。

思い返せばKYという言葉はもともとネットスラングですし、流行ったのはスマホの登場と同時期です。

実際のところは、日本人お得意の空気が空気を読むことをさらに重視させるようになっただけで、たまたまインターネットの普及がそれに拍車をかけたというのが正しいのだと思っていますが。

 

さて、現代の子たちにとって、空気を読むことは至上命題と言っても過言ではないほど重要なことです。

いくら勉強が出来ようが、運動が出来ようが、絵が上手かろうが、歌が上手かろうが、さした意味はありません。

自信を確立するのに複数あった評価軸は、現在はコミュ力に一元化されていっています。

 

逆説的なようですが、コミュニケーションのツールが増えると、全体の人々のコミュニケーションは増えるようで、非常に活発なコミュニケーションを行うグループと、狭い枠内から籠って出ないグループとに実は二極化します。

 

見ていると、SNSにはまる人は、いわゆるスクールカーストにおける上位と下位に多いように見えます。

中間層ほど、SNSをやってはいても、そこまで重視してはいないようです。

 

この理由はわりと簡単に予想できます。カースト上位(いわゆるリア充)という人たちは、所属と承認がありすぎて感覚がマヒしているため、満足できずより多くの所属と承認を求め、みんなが活用しているものを取り入れていく。

そこには、自分が仲間外れになってカーストからこぼれ落ちる恐怖もあるでしょうね。

 

一方でいわゆる非リア充となると、所属と承認をもとめ、自分の近しい世界から離れた仲間を求めネットの世界に入り込んでいる。

 

こういった構図だろうと思います。除いていると分かるのですが、リア充ほど、SNS上で、知り合い(学校やその他の場)との会話が多い。

 

一方で、非リア充ほど、別のコミュニティーに入っていっています。

このように、カーストの上位下位はそれぞれ別の次元で所属と承認を求め、渇いています。

 

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