おはようございます
前回からスタートした…
第1回に続き…
第2回となる今回のテーマは…
川越氷川神社参拝を終えた私たちは…
本編に入る前に…
「川越城」について纏めてみました
川越城の歴史は、室町時代中期に始まります。
川越城は、関東管領の上杉持朝(うえすぎもちとも。扇谷(おうぎがやつ)上杉家当主)が…
家臣の太田道真(どうしん。相模守護代)・道灌(どうかん。江戸城を築城した武将・学者)父子に命じて…
長禄元(1457)年に築城させた城でした。
驚いたのは…
川越城を築城した年(長禄元(1457)年)は…
江戸城を築城した年(長禄元(1457)年)と…
が働いていたと考えられます。
つまり…
① 上杉持朝は川越城主として…
② 江戸城を築城した太田道灌を江戸城主として…
③ 川越城と江戸城を軍事道路(後の川越街道)で結んで…
古河公方(こがくぼう。茨城県古河市を本拠とした
関東足利氏)への…
江戸時代に入ると…
川越城は江戸城の出城(でじろ)の役割を担い…
家康・秀忠・家光も度々鷹狩に訪れています。
また、藩主は大名の“世襲制”が一般的である中…
川越藩主は幕府の大老や老中といった重臣(酒井・堀田・松平などの譜代)が務めていました。
江戸時代には、川越城の拡張工事も行われました。
承応2(1653)年(藩主は松平信綱)のことです。
拡張工事の結果…
総面積9万9千坪(約32万6千㎡)の規模を持つ…
巨大な城郭が完成しました。
こうして、川越は「江戸の北の守り」として発展し…
「小江戸(こえど)」と称されるほどになり…
開府直後には2万石だった石高は…
幕末には17万石へと拡大しました。
江戸時代の拡張工事以前の図会を見ても…
天守閣はないのです。
川越城には…
の4つの 櫓(やぐら)がありました(過去形)。
復元イメージもあります
「富士見櫓」の名の通り…
富士山を眺めることができたそうです
「門(もん)は13あった」ということですが…
石碑として残っていたのはの6つだけでした。
櫓と門のまとめとして…
川越城跡の櫓(4)と門(13)全てをプロットすると…
こんな感じ…
川越城について学んだところで…
いよいよ訪問の模様です
先ずは、唯一現存する“堀跡”から
それが…
中ノ門堀跡は川越城跡に残る唯一の堀跡です。
中ノ門堀があった「中曲輪(なかくるわ)」は…
西大手門側から本丸方向へ進軍しようとする敵を阻止する役割がありました。
その他の堀については…
城巡りをブログに綴っているねじまき鳥さんによれば…
宅地化されています
続いては…
本丸御殿は…
(前述の)松平信綱による川越城の拡張により…
江戸時代には、建物数16棟、1,025坪に及ぶ広大な建物で…
という機能を備えた…
文字通り…
しかし…
明治6(1873)年の「廃城令」によって…
川越城も多くの建物が移築・解体され…
今では本丸御殿の玄関部分と大広間・家老詰所を残すのみ(赤枠部分)となっています
中に入ってみましょう
広間と詰所の配置は…
こんな感じ
順番(① ⇨ ⑥)にご紹介しましょう
そして…
注:舩津蘭山(文化5(1808)年生まれ)は、川越藩松平大和守家の御用絵師で、岸村の名主も務めた御仁だそうです。
展示室には…
「丸に三つ葉葵紋」の屋根瓦が陳列されています
続いて…
家老詰所は…
明治の「廃城令」で県内の回漕問屋に払い下げられていたものを移築し、昭和63(1988)年度に本丸御殿に繋げて復元したものです
間取りは…
内部に入ってみましょう
① 南側には…
縁と畳敷の入側(いりかわ。通路)が配され…
② 北側には…
座敷が張り出し…
③ 西側には…
床の間・床脇(とこわき)付きの
10畳の主座敷と8畳の次の間×2室があるのですが…
特に印象的だったのが…
ご覧下さい
そして…
④ 北側の2ヶ所には…
厠(かわや。便所)が設けられていました。
ご覧下さい
厠の外側を見ると…
清々しい気持ちで庭を眺めながら…
私のの想いに川越市が立ち上がりました
(このブログの影響ではありません )
ご覧下さい
「完成は2032年」とのことです
次回のテーマは…
10月18日アップ予定で頑張りまっちゅ
今日の一句です。
ではでは
ろっきぃがお送りしました