>羅摩船が気になって。なんで「かがみ」かなと。
(※御方より、2014年11月22日)
古事記の「羅摩船」において、仮名表記の「羅摩」の部分は、伝統的に、
「カガミ」と訓まれる。色々な解釈があるが、まさに、「鏡」(カガミ)だろう。
「羅摩」(ラマ)という言葉が、どんな脈絡で「鏡」(カガミ)と訓まれるのか。
恐らく単純だ。「羅摩」=「r‘-mՅ‘」(true sun)は、「天照大御神」を含意。
其の「天照大御神」は、自らのシンボルとして、「鏡」(カガミ)を指定する。
「羅摩」=「r‘-mՅ‘」(真の日)だからこそ、「鏡」(カガミ)、と訓まれるのだ。
* * *
ここで大事なのは、「羅摩船」という成語の背景である。ひとまず、
「大御神」の三者は、すべて、「Յd」(忿怒、7)を含意するのだった。(※「如沫雪蹶散」に注意)
ところが…「dpt」(船、595)=「dpt」(味、595)=「Յd」(忿怒、7)、だ。(※「和迩」(鰐)を含意する)
且つ、「makūru」(boat)=【SNWΘA】(箕、149)=「‘nḫ」(鏡、149)。
この「makūru」(boat)は、「makara」(和迩魚)に重なる。そういう訳で、
「羅摩船」に於ける「makūru」(船)は、「Յd」(忿怒、7)を含意するのだ。
即ち「天照大御神」の「如沫雪蹶散」という行動に見られる性質である。
#ちなみに…言わば「‘nḫ」(鏡、149)である、「天照大御神」は、何が何でも、
#【SNWΘA】(箕、149)に当たる「天之忍穂耳」を、自分の子に位置づける。
#【ADNA ΣNNA ΣWΣA】(忍穂耳、1400)も、【SRWQ十A RWGZA】
#(阿遅鉏、1400)であり、まさしく、「Յd」(忿怒、7)を含意する。その点に注意。
* * *
以上の通りだから…「少名毘古那神」の「毘古那」は、結局は、印欧系の「beacon」に重なって、
「知訶」(穂)=「št」(百、900)=「nīru」(yoke)=「nīru」(六百)=【SNWΘA】(箕、149)を含意。
「嘆き」(長息)=「anāḫu」(to sigh)と共に、「‘nḫ」(鏡、149)であるところの「天照大御神」を含意。
「dpt-r‘-mՅ‘」(羅摩船、1107)、【PGOA LMANA OMR KWBA RBA】(大綿津見、1107)。
それは【ΣMΣA】(日神、852)=【ALHA PGOA LMANA OMR KWBA】(綿津見神、852)、
なのである。このときに、「r‘-mՅ‘」(真の日、512)=「σα ΐ τα」(矢、512)=「財田」(サイタ)は、
「財」(タカラ)、即ち、【DQLA】(棗椰子、247)=【十MRA】(棗椰子、852)=【ΣMΣA】(日神、852)。