>我が言葉は空しくされ
>我が願い 其方達の耳に届かぬ
>
>時空の掟を破って、伝えし言の葉
>我々の望み
(※『光の黙示録』233頁より)
>けれど あなた方人間には
>神からの大きな贈り物としての
>希望がある
>
>希望のあるところに
>愛がある
>愛のあるところに
>光は満ちる
(※『光の黙示録』235~236頁より)
日本語の特徴として、「大きな贈り物」としての「希望」、とも読めるし、
「大きな、贈り物としての希望」、とも読める、ということがある。ここで、
どちらの読み方が正しいか?…と考える必要は無い。どちらも正しい。
* * *
「我が願い」と言い、「我々の望み」と言い、「大きな贈り物としての希望」と言う。
「大きな、贈り物としての希望」ならば、「大きな贈り物」は、「大きな希望」であり,
言い換えると、それは、「大きな望み」であり、又、「大きな願い」(=大願)である。
「希望」の在るところに、「愛」が在るわけだから、「大きな希望」の在るところには、
「大きな愛」が在るわけだ。要するに、「人間」には、「大きな愛」が在るのであって,
逆に言うならば、「大きな愛」が在るのが、「人間」なのである。そういうわけだから、
いわゆる【BRNΣA】(人間、765)の数字とは…【RXMA RBA】(大きな愛、666)。
#もちろん…【RXMA RBA】(大きな愛、666)は、【RXMA RBA】(大きなwomb、666)、即ち,
#“大きな「karašu」(womb)”である。「大烏」(オホカラス)、即ち、「八咫烏」(ヤタガラス)である。
#ここで、「tr」(願い)は、「tr」(時)なのだから、結局のところ、「八咫」(八阿多)が示す「阿多」は,
#前項の通り、「Յt-‘Յ」(大いなる時)。即ち、「阿多」は、【RXMA RBA】(大きな愛、666)だろう。