【室】(Pūrva Bhādrapadā)=【SWSYA RBA】(Pegasus、474)=「δύο」(二、474)は、
「ikû」(野)=「鹿屋野比売」である。それが、「伊予国」(愛比売)とされる。この場合には、
まさに、「ikû」(野)=「鹿屋野比売」の別名こそが、「愛比売」である。ここで、「鹿屋野」は,
「kayyānu」(constant)を表す。そういうわけで、「ikû」(野)=「鹿屋野比売」=「愛比売」は、
いわゆる “終わる事の無い「愛」” を表す。「愛比売」=「δύο」(二、474)=「snw」(二)は、
「šnw」(永遠)なのである。それだから、「愛比売」が、「鹿屋野比売」でもある。こういう話だ。
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ところが、エジプトには、「sḫt」(野)の神格化である女神の「Sḫt」(野)が存在する。
その「sḫt」(野)は、「sḫt」(沼)も意味。つまり、「Sḫt」(野)=「sḫt」(沼)=「šՅ」(沼)。
「ikû」(野)=「鹿屋野比売」=「愛比売」は、「šՅ」(沼)を含意するのである。それは、
現代のスラングで「沼る」(ヌマる)などと表現するのと同じ意味合いだ。それは即ち,
「恋煩い・恋患い」の状態。「mri」(愛する, 好き)が昂じて、「mr」(diseased)の状態だ。
#この「恋煩い・恋患い」の状態になると、往々にして、「視野狭窄」にもなる。(※「狭野」である)
#「ḥns」(狭い)の決定詞も、「mr」(病気の)の決定詞も、[𓅪](雀)である。又、
#当該の「恋煩い・恋患い」の状態は、正しく「šՅ」(沼)にハマった状態である。
#いわゆる “終わる事の無い「愛」” には、ここで述べた様な側面が存在する。
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要するに、「šnw」(永遠)のネガティヴなニュアンスは、延々と続いて泥沼化すること。
然らば、“「šnw」(永遠)の「snw」(二)” に充てた表記こそが、「狭野」(佐怒)であって、
「狭」(佐)は、「šՅ」(沼)であり、且つ、「野」(怒)も、「沼」(奴)を含意する。この場合に、
「狭野」=「伊波礼毘古」において、「伊波礼」は、やはり、「ippāru」(marsh)を指し示す。
逆に言うならば、「ippāru」(沼)は、「šanû」(second)=「snw」(二)=「šnw」(永遠)、即ち、
“終わる事の無い「愛」” を含意する。「狭野」(佐怒)は、女神の「Sḫt」(野)、を示すのだ。
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そのうえ、「ikû」(野)は、「īku」(dike, ditch, small canal)に掛かる。同じように、
「mri」(愛する)を表記する[𓌸]は、「mr」(運河, 掘)を表記する[𓈘]と交替する。
どちらにせよ、当該の[𓌸]が、【A】(アレプ、2)=「愛比売」=「Sḫt」(野)なのだ。