(……まず先に前項をお読み下さい……)
>書紀には「誓」・「誓約」・「祈」などの漢字が当てられて居り、
>「誓約之中、此云宇気譬能美難箇」・「祈狩、此云宇気比餓利」などとある。
>さうしてウケヒはチカヒ(誓・盟)とも密接な関係があり
>またトコヒ(呪詛)とも相通じる性質を有してゐたのである。
(※倉野憲司『古事記全註釈』(三省堂、1976)第三巻上巻編(中)18頁より)
前に述べた様に、「うけふ」という動詞の意味合いに就いて、
「事前に宣誓し、そうなるかどうか試すこと」まで含めるのは、
筋が悪い。基本的に、「事前に宣誓すること」が「宇気比」だ。(※既稿を参照)
* * *
では、「誓約(うけひ)之中、子を生む」とは、どういうことか。(※天照系神話の持つフレーム)
実際に発声して宣誓する時間幅は、もちろん限られている。
限られていても、「○○になれ」と言いつつ、△△することは、
有りえる。但し、△△することに相当な時間幅を費やす場合、
当然、この時間幅は、宣誓する時間幅を大きく上回るわけで、
結局のところ、宣誓を終え、△△するのと、ほとんど変わらぬ。
こういう状況において、「宣誓の中で、△△する」とは言えない。
ここで考えてみるべきは、例えば「祈狩」(うけひがり)である。
いわゆる「宇気比」が「祈り」の意味合いも帯びるのであれば、
「祈り」の時間幅を考えてみるとよい。即ち「祈る」ということは、
瞬間的に祈りの言葉を述べるだけのことでは無いはずである。
「祈る」ということは、事実上、「祈り続ける」ということ。つまりは、
祈りの言葉を述べるだけでなく、それを保持し続けることである。
こう理解すれば、「誓約の中で、△△する」というフレームが判る。
#「宇気比」とは事前に宣誓するだけではなく、事に当たり、
#その宣誓したテーゼを心の中に保持し続けることを含む。
#だからこそ、「誓約之中、生子」、という表現が可能になる。
* * *
以上の考察を踏まえると、古事記の「宇気布時」の意味が、
もう少し判る。直訳は、小学館全集の「誓約する時に」だが、
「誓約の言葉を述べ、それを心に持ち続ける時に」という意。
結局のところ「誓約の言葉を述べ、それを心に保持しながら、
お互いが子を生む時に」という意と言える。もちろん、此処に、
誓約の言葉の中身は、寸分も示されていない。示さないのは、
読者に想像させつつも、あとの天照の詔別の決定力を高める、
そういう意図だろう。とにかく、誓約が無いという理解は不可解。