日本書紀のなかでも、天照系の神話に限って、「誓約之中、生子」、あるいは「誓約之間、生子」、
という叙述フレームが出てくる。「誓約之中」の「中」とか、「誓約之間」の「間」は、抽象的ではなく、
「食事中に」と言うときの「中」であり、「○○する間に」と言うときの「間」であり、特定の時間を言う。
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もう少し詳しく見てみる。「食事中に」と言うとき、もちろん食事をしている時間幅があり、
「中」という語は、その時間幅の全体を指すこともあるし、何処か一部を指すこともある。
「○○する間に」と言うときの「間」も、似たり寄ったりだろう。「中間」という熟語にも注意。
とにかく、当該の「中」や「間」は、幅を持った時間を言う。幅を持った時を言う。それゆゑ、
「食事中に、カラスが鳴いていた」は、「食事の時に、カラスが鳴いていた」でも、ほぼ同じ。
実は、このような例、つまり「食事の時に、カラスが鳴いていた」というような例の場合、
「時」という語は、食事をしている時間幅を漠然と指して使う。さらに、当該の時間幅は、
カラスが鳴いていた時間幅に重なるか、カラスが鳴いていた時間幅を包含するはずで、
「時」の語が、特定の時間幅を指すだけでなく、出来事とか行為の同時性をも表現する。
どちらにせよ、「食事中に」でも「食事の時に」でも、近しく「食事の最中に」の意味である。
#さて、古事記の神話も、天照系神話の一つであり、全体的に言うならば、
#日本書紀の第六段正文にプロットが相似。その第六段正文が持つのが
#「誓約之中、生子」という叙述フレームである。加えて、上述のことがある。
#古事記の「宇気布時、○○而、△△而」という記述に対し、「宇気布時」は、
#「誓約する時に」と現代語訳される。また、続く「○○而、△△而」の部分は、
#「生子」(子を生むこと)のプロセスの記述である。「宇気布時」という表現は、
#実のところ「誓約之中」という表現と、ほとんど同じ意味の表現かもしれない。
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「宇気布時、○○而、△△而」という表現の、「宇気布時」のアスペクトは、
前に述べた通り、「まさに誓約しようとする時に」、である可能性もあるが、
もし、そういうことなら、「天照」が、普通は無い形で割り込んだことになる。
逆に割り込んだわけではないのならば、「宇気布時」の意味は、どうしても
「誓約し、その誓約を心に保持する中で」といった意味になる。その場合に、
古事記においては、誓約のプロセスが無い…などという帰結は有り得ない。
誓約のプロセスが無いのならば、これは天照が強引に割り込んだケースだ。