【和歌山の旅】6月14日 阿須賀神社 蓬莱山 徐福の宮 | その先、ヒカリ♥

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阿須賀神社

和歌山県新宮市

 

 

    

事解男命

(ことさかおのみこと)

 

熊野速玉大神

(くまのはやたまのおおかみ)

熊野夫須美大神

(くまのふすみのおおかみ)

家津美御子大神

(けつみみこのおおかみ)

 

配神

事角見命

(事角見神、たけつねのかみ)

 

黄泉津道守命

(黄泉津道守神、

よもつみちぬのかみ)

 

 

 

 

 

阿須賀神社は、

熊野川河口近くにある

蓬莱山と呼ばれる小丘陵の南麓に

鎮座する。

 

古くは飛鳥社とも称された。

 

蓬莱山は南北100メートル、

東西50メートル、標高48メートルの

椀を伏せたような山容で、

神奈備の典型とも言うべき姿をしている。

 

熊野速玉大社伝の

「新宮本社末社総目録」に

上御備・下御備の祭祀遺跡が

描かれているように、

古くから信仰の対象となっていた

と見られる。

 

また、もともとは

陸から離れた島であったともされる

 

 

 

 

    

熊野の地において

熊野権現は

まず神倉神社に降臨し、

 

それから61年後に

阿須賀神社北側にある

石淵(いわぶち)谷に勧請されて、

 

その時に初めて

結早玉家津美御子と称した

と伝えられており、

 

熊野権現の具体的な神名が

はじめて現れた場所と

見なされていたことが分かる

(「熊野権現垂迹縁起」)。

 

 

その他、境内からは

弥生時代の遺跡が発掘されており

熊野における

歴史と信仰の

最も古い層に関わる地

として重要である。

 

Wikipediaより

 

 

 

 

 

 

 

    

社伝によれば

孝昭天皇の代の創建と伝えられる。

 

平安時代に

熊野権現の本地が確立してからは、

大威徳明王を本地仏として祀った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平安時代後期から12世紀前半までの

中世熊野参詣では、

 

阿須賀神社に参詣することが

常であったと見られ、

 

中右記』の

天仁2年(1109年)10月27日条に

「参阿須賀王子奉幣」と記され、

 

熊野九十九王子の王子社

(阿須賀王子)としての扱いを

受けていたことが分かる。

 

また、『平家物語』巻十には

 

平維盛が新宮で

「明日社ふし拝み」と記され、

 

阿須賀神社への参拝が

一般的なことがらであったことが

認められる。

 

 

紀伊続風土記』によれば、

近世の阿須賀神社には、

 

並宮・拝殿・御供所・鐘楼堂・

四脚門・鳥居・社僧行所などが

あったという。

 

1907年(明治40年)、

熊野速玉大社の末社であった

八咫烏社(建角美命)

・宮戸社(黄泉津道守命)などを合祀した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第七代皇霊天皇の頃、

秦の徐福が

神薬を求めてこの熊野に来り、

この地に奉祀されたと言われる。

 

阿須賀神社境内に、

徐福の宮が再建されたのは、

昭和60年。

 

新宮の熊野速玉大社にある神宝館には

寛永年間頃の作といわれる

「紙本着色新宮本社末社附新宮末社図」

という

鳥瞰的(ちょうかんてき)な絵図が

残されており、

そこに、

徐福の宮や徐福の墓、七塚なども

描かれている。

 

 

 

子安之社

 

 

 

歴史的民俗資料館もあります

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蓬莱山経塚

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥居の右わきから

奥に行きますと

 

堤防沿いにあります

 

必ず、徒歩

 

 

 

 

 

うっそうとしていて

下には、テトラポットがありました

 

 

熊野川河口です

 

 

 

 

新宮市波田須町

 

 

 

佐賀県

 

 

 

京都にある、徐福上陸の地