国立国会図書館より
蛯原さまの考察
「かぐや姫」です
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『新説 かぐや姫と五人の公達』その1
〜伊予親王の変、承和の変が作り出した
五人の公達の本当のモデルと
続日本後紀の作られた背景
江戸時代の国文学者・加納諸平は、
『竹取物語』中の
かぐや姫に言い寄る
五人の貴公子が
『公卿補任』の文武天皇五年(701年)に
記されている公卿に
そっくりだと指摘した。
諸平は、阿倍御主人、
大伴御行、石上麻呂は実在の人物であり、
車持皇子のモデルは、
天智天皇の落胤との説があり
母の姓が「庫持」である藤原不比等、
石作皇子のモデルは、
宣化天皇の四世孫で「石作」氏と
同族だった
多治比嶋(丹比真人島)
だと述べている。
しかし、物語中の四人の貴公子までは
その実在の公卿四人が連想されるものの、
五人のうち
最も卑劣な人物として描かれる
車持皇子と、
最後のひとり藤原不比等が
まるで似ていないことにも触れている。
だが、これは反対であるがゆえに
不比等本人ではないかと
推測する見方もでき、
表向きには言えないがゆえに、
車持皇子を
「卑怯である」と書くことによって
陰に藤原氏への悪口を含ませ、
藤原氏を批判しようとする
作者の意図が
その文章の背後に見えるとする意見もある。
この五人はいずれも
壬申の乱の功臣で
天武天皇・持統天皇に仕えた人物
であることから、
奈良時代初期が
物語の舞台だったと考えられている。
〜wik参考
『平安時代初期の五人の公達』
〜蛯原説
〈阿部御主人〉
安倍 兄雄(あべ の あにお/えお)
平安時代初期の公卿。
中納言・阿倍広庭の曾孫。
无位・安倍道守の子。
官位は正四位下・東山道観察使。
延暦19年(800年)
従五位下に叙爵され、
翌延暦20年(801年)
少納言に任官する。
桓武朝末の延暦25年(806年)3月に
中衛少将に任ぜられる。
同年3月に
従兄弟の藤原乙牟漏所生の
平城天皇が即位すると、
5月に
一挙に四階昇進して
従四位下に叙せられる。
さらに同年閏6月に
新たに観察使制度が導入されると
準参議兼山陰道観察使に
任ぜられて公卿に列する。
その後、東山道・畿内の観察使も歴任した。
なお、観察使在職中には、
東山道諸国の正税と公廨稲について、
戸口数に準じて
増減して出挙したい旨上表し許されている。
また、国司交代の円滑化を目的に、
不与解由状に前任者と後任者の言い分を
それぞれ書いて上申することについての
提案を行っている。
また、右兵衛督・左近衛中将と
武官も兼帯し、
左中将在職中の
大同2年(807年)10月に
発生した伊予親王の変では、
左兵衛督・巨勢野足と共に
150名の兵士を率いて親王邸を包囲した。
一方で、当事件により
伊予親王が親王を廃された際に、
天皇の怒りが凄まじく
敢えて諫めるものは誰もいない中、
兄雄のみが
言葉を尽くして諫争した。
諫争の成果はなかったものの、
論者には筋を通したと評された。
有名な安倍晴明は
兄雄の子孫ともいわれています。
大同3年(808年)正月に
正四位下に叙せられるが、
同年10月19日病気により卒去。
最終官位は
東山道観察使左近衛中将正四位下春宮大夫。
阿倍は
『唐の商人』から火鼠の皮衣を購入した。
この衣は
本来燃えぬはずであったが、
姫が焼いてみると燃えたので
贋作と分かり、
阿倍に因んでやり遂げられないことを
「あへなし」
と言うようになった。
〜竹取物語
「伊予親王の変」や「承和の変」により、
昇進しています。
兄雄は
平城天皇に言葉を尽くして
諫争(伊予親王の弁明)しましたが、
伊予親王親子は自殺してしまいます。
まさに「あへなし」。
また「春宮」は
『唐の皇太子の家政機関』を
模したものです。
〈大伴 御行〉
伴 氏上(とも の うじかみ)
平安時代初期の貴族。
参議・大伴駿河麻呂の子とする系図がある。
官位は正五位下・右中弁。
勲等は勲七等。
嵯峨朝初頭に少内記を務める。
また、勲七等への叙勲を
受けていることから、
蝦夷征討にも従事したが、
淳和朝では、
尾張守や左少弁など内外の諸官を歴任し、
この間の天長2年(825年)
従五位上に昇叙されている。
天長10年(833年)
仁明天皇の即位に伴って、
正五位下・右中弁に叙任される。
翌承和元年(834年)
第19次の遣唐使が
派遣されることが決まると、
造舶使長官に任ぜられ
遣唐使船の築造を担当する。
承和3年(836年)7月に
遣唐使船は大宰府から唐に向け
出航するが、
間もなく渡海は失敗して
7月から8月にかけて
全ての船が九州各地に漂着した。
そのため、9月に
氏上は修理遣唐舶使長官に任ぜられ、
遣唐使船の修理に当たっている。
大伴は
船で探索するが嵐に遭い、
更に重病にかかり
両目は二つの李のようになり、
世間の人々が
「大伴の大納言は、
龍の首の珠を取りなさったのか」
「いや、御目に
二つ李のような珠をつけていらっしゃる」
「ああたべがたい」
と言ったことから、
理に合わないことを
「あなたへがた」と言うようになった。
〜竹取物語
名門大伴氏、
大伴御行の曾孫でありながら、
天皇の御名と同姓なのは
畏れ多いと
淳和天皇の諱(大伴)を避けて
伴氏に改称。
(弘仁14年(823年) 4月28日
大伴宿禰から伴宿禰へ改姓)
神話の時代から続く名門
『大伴』の名前から
大を取り伴となる、
これは『理に合わない耐えがたい』
ことだったかもしれませんね。
〈石上麻呂足〉
阿刀大足(あとのおおたり)
*物部氏と同祖伝承を有する
神別(天神)の古代氏族で、
「阿刀連」のち「阿刀宿禰」姓を称した。
左京 神別天神 阿刀宿禰 、石上同祖。
平安初期の学者で
空海の母方のおじにあたる。
桓武天皇皇子伊予親王の
「侍読(侍読(じどく/じとう)とは、
天皇の側に仕えて
学問を教授する学者のこと)」
として活躍したが、
大同2(807)年10月の
親王謀反(伊予親王の変)の事件に
巻き込まれたものか、
その後の事績などは不明。
甥の空海が
大足を頼って
上京(平城京とも長岡京とも)、
大学へ入学する以前、
論語、孝経、史伝などの
個人指導を行ったことが、
空海の『三教指帰』序などで知られる。
空海の入唐実現は
大足の援助によるといい、
かの地で発揮された
中国語や漢学の才能も
大足の影響が大であったといわれる。
石上は
大炊寮の大八洲という名の
大釜が据えてある小屋の屋根に上って
『子安貝(子安貝は伊予の方言)』
らしきものを掴んだが
転落して腰を打ち、
しかも掴んだのは
燕の古い糞であり
貝は無かったことから、
期待外れのことを
「かひなし」と言うようになった。
〜竹取物語
「子安貝」は
燕が産む貝のことですが、
「伊予」の方言です。
阿刀大足は
伊予親王の近くにいて
「変」を陰で先導していた
のかもしれませんね。
しかし、伊予親王は
平城天皇に対する謀反の罪により
母とともに幽閉され、
飲食を絶たれて自殺してしまいます。
まさに学問を教えても
「かひなし、貝なし」ですね。
〈石作皇子〉
葛原親王(かずらわらしんのう、
延暦5年11月7日(786年12月1日)
- 仁寿3年6月4日(853年7月13日))
平安時代初期の皇族。
桓武天皇の第3皇子。
官位は一品・大宰帥。
桓武平氏の祖。
母は『多治比真宗』の娘。
延暦17年(798年)
異母兄弟の大伴皇子(後の淳和天皇)
と共に元服。
延暦22年(803年)
四品・治部卿に叙任される。
延暦25年(806年)
平城天皇の即位後まもなく
大蔵卿に任ぜられ、
弾正尹を経て、
大同4年(809年)三品に任ぜられる。
弘仁元年(810年)
薬子の変に前後して
式部卿に遷ると
嵯峨朝ではこれを10年以上務め、
弘仁3年(812年)大宰帥を兼ね、
弘仁7年(816年)には
二品に叙せられている。
弘仁14年(823年)
淳和天皇の即位後に弾正尹に遷り、
天長2年(825年)には
息子を臣籍降下させ
平朝臣姓を称することを
上奏して許されている。
天長7年(830年)
式部卿に復し、
翌天長8年(831年)には
託基皇女以来80年ぶりに
一品に叙せられている。
こののちも、
約20年の長きにわたって式部卿を務め、
この間の承和2年(835年)に
甲斐国巨麻郡
(現在の山梨県南アルプス市)の
牧であった
「馬相野空閑地五百町」を与えられている。
嘉祥3年(850年)
文徳天皇の即位後に、
再度大宰帥に任じられている。
石作皇子は
大和国十市郡の山寺にあった
只の鉢を持っていき嘘がばれたが、
鉢を捨ててまた言い寄ったことから、
思い嘆くことを
『はぢを捨てる』と言うようになった。
〜竹取物語
葛原親王は
桓武天皇の皇子でありながら、
藤原氏を恐れて
臣籍「平氏」となっています。
身分等は
多治比氏の血を引き皇族でありながら
「恥」を捨てたのかもしれませんね。
〈車持皇子〉
藤原 良房(ふじわら の よしふさ)
平安時代初期から前期にかけての公卿。
藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の次男。
官位は従一位・摂政太政大臣、贈正一位。
染殿、白河殿と称される。
漢風諡号は忠仁公 、国公は美濃公。
皇族以外の人臣として
初めて摂政の座に就いた。
また、藤原北家全盛の
礎を築いた存在であり、
良房の子孫達は相次いで摂関となった。
貞観8年(866年)に起きた
応天門の変では、
大納言・伴善男を失脚させ、
事件に連座した
大伴氏・紀氏の勢力を宮中から駆逐する。
承和9年(842年)正月に正三位、
7月には右近衛大将を兼任する。
当時、皇太子には
淳和上皇の皇子である恒貞親王が
立てられていたが、
7月に嵯峨上皇が崩御した
直後に起きた承和の変で
恒貞親王が廃され、道康親王が立太子される。
これにより良房は
皇太子の外伯父となると共に、
大納言兼左近衛大将に昇進する。
また、変により
大納言・藤原愛発と中納言・藤原吉野が
失脚して、
太政官の上席は
老齢の左大臣・藤原緒嗣と
大納言・橘氏公、
及び嵯峨天皇皇子の若い右大臣・源常のみに
なっており、
良房はこの変を通じて
朝廷での影響力を一挙に強めた。
承和10年(843年)藤原緒嗣、
承和14年(847年)橘氏公が没して、
良房は太政官の次席の地位に昇り、
承和15年(848年)には右大臣に任ぜられた。
清和天皇は
良房に
「摂行天下之政
(天下の政(まつりごと=政治)を
摂行せしむ)」
とする摂政宣下の詔を与えた。
これが人臣最初の摂政である。
法制の整備に力を入れて、
『貞観格式』を完成させた
(格は貞観11年(869年)、
式は貞観13年(871年)に公布)。
貞観13年(871年)
准三宮を宣下されるが、
それから数ヵ月後の
貞観14年(872年)9月2日薨去。
享年69。
没後正一位を追贈され、忠仁公と諡された。
車持皇子は
玉の枝の偽物をわざわざ作ったが
その報酬を支払われていない
職人たちがやってきて
偽物と発覚、
長い年月姿が見えなかったことから
「たまさがなる」
と言うようになった。
*『「たまさがなる」とは
まれであるさま、
めったにないと思われるさま、
ひょっとしてそうなるさま』
〜竹取物語
人臣で初めて「摂政」になった良房、
まさに「たまさがない」出来事
だったのでしょうね。
かぐや姫の『かぐや』は、
漢字では『赫』、
これは燃え盛る火、
つまり火星であり、
『熒惑 (けいわく)』
と呼ばれています。
『熒惑入月』とは、
熒惑トハ、火星ノ名、
其光熒(かがや)クを以て、
人ヲ疑惑セシムベシ
といい、
人心を惑わす火星を
月が隠してしまう事なんです。
猪名部氏の祖神は
『天津赤星』、
木工一族の猪名部氏が
最も畏れを抱くのは『火』、
つまり火星なんです。
これですよね!!
かぐや姫は
月に隠される火星であり、
天津赤星を祖神とする
『あまねいこ』だったと考えています。
貞観時代の禍いを鎮めるのが、
『かぐや姫』の使命だったんです。
『かぐや姫 と あまねいこ』
〜員弁(いなべ)の
春澄善縄と春澄洽子(あまねいこ)
・・・御室戸斎部(みむろどいんべ)の
秋田を呼んで名前をつけさせた。
秋田は
『なよ竹のかぐや姫』と名づけた。
ー竹取物語
逢ふことの かたみに植うる
なよ竹の 立ちわずらふと
聞くぞ悲しき
ー春澄 洽子(大和物語)
逢ふ事も 涙に浮かぶ
我が身には 死なぬ薬も
何にかはせん
ー竹取物語
貞観十二年(870)二月十九日辛丑、
参議従三位の
春澄朝臣善縄(はるずみあそんよしただ、
ぜんじょう)は亡くなっている。
善縄の字は「名達(めいたつ)」で左京区の人となっているが、本姓は「猪名部 造(いなべのみやつこ)」であって、伊勢国員弁の人である。成人したのち京に移って「帝」に仕えた。
祖父の財麿(たからまろ)は員弁少領(いなべのすけのみやつこ)【都の役人】であり、父の豊雄(ほうゆう)は、周防の大目(だいさかん)【国の役人】であった。
善縄は幼い頃から賢くて体も丈夫であり、祖父の財麿は、並はずれて優秀な善縄を一生懸命養育し、孫のために学資を惜しまず出した。
善縄は若い頃から学問を志し、良い師についた。
多くの書物を読み、怠けることなく勉強をした。
また、いろいろな物事や学芸に通じ、詩文の表現、創作の才能に優れていた。
特に見聞したことを暗記することが誰よりも優れていた。
天長(824)の初め、試験に合格して「俊士(しゅんし)」(大学に入学を許可された庶民の子弟)になった。
天長四年(828)に常陸の少目(しょうさかん)となったが、もらった給与はほとんど勉学のためにあてた。
天長五年(829)年には、姓、「春澄宿禰」を授けられ、兄弟姉妹も同じように授けられる。後に朝臣となる。
俊士の号をやめて文章得業生(とくごうせい)に補せられる。
天長七年(831)、帝が出題する問に対する答えが大変よかったので式部省(国の礼式を司る所)の丙第(へいだい)【学問の級の一つ】になる。
その春、内記(うちのしるすつかさ)【詔勅などの起草や記録の官職】が欠員となったのでその職につく。
夏、五月に試験に合格し、六月に少内記に補せられる。
文筆を志す者にとって栄誉であり、まもなく大内記となり、天長八年(832)には播磨国の少目(しょうさかん)を兼務し、天長九年(833)には従五位の下に叙せられる。
天長十年(834)には、東宮学士を拝命し、大内記であることはもとのままである。
承和元年(834)には摂津権介(ごんのかみ)を兼務、承和三年(837)に但馬守となり、承和九年(843)の春、従五位上になる。
秋七月、嵯峨上皇がなくなられ、同年7月に上皇の崩御をきっかけに承和の変が発生し、恒貞親王が皇太子を廃され、東宮学士であった善縄もこれに連座して周防権守に左遷される。
承和十年に文章博士にもどる。
承和14年(847年)清涼殿において仁明天皇に対して『荘子』『漢書』の講義を行った。
荘子の講義に対しては天皇から束脩の礼(そくしゅうのれい)を受けた。
中国の学者 范曄(はんよう)の講義をしたが、その解説の良さは見事で学生の質問など、すべての疑義を明らかにした。
嘉祥元年(848)、正五位下に進む、嘉祥三年(851)には従四位下を授かる。
仁寿二年(852)但馬守、仁寿四年(854)に刑部大輔、斉衡三年(856年)文徳天皇に『晋書』を講義する。
斉衡四年(857)正月には伊予守、同十二月右京太夫を兼ね、天安二年(858)に従四位上を授かる。
貞観二年(860)参議拝命、貞観三年(861)、式部大輔(しきぶたいふ)になる。
貞観四年(862)には正四位下を授かり、貞観五年(863)には播磨権守を兼ね、貞観六年(864)、近江守となる。
これより先、帝の命により
「続日本後紀」二十巻を編集する。
貞観十一年(869)までかかって
添削して完成する。
これを帝に献上し、太政官に蔵めた(きすめた)。
この年の春に発病し、だんだん重くなる。
明くる年二月七日に従三位を授かり、最終官位は参議従三位行式部大輔兼『讃岐守』となる。
『扶桑略記』には「在朝の通儒」と評されたが、儒教や歴史のみならず、
『周易』・『老子』・『荘子』の
三玄の学に通じて、
陰陽道に対する造詣が深かった。
紀伝道(きでんどう、日本律令制の大学寮において、主に中国史を教えた学科)においては、菅原清公(すがわらのきよきみ)、是善(これよし、菅原道真の父)父子が相次いで文章博士を務めて、私に文章生と師弟関係を結び(菅家廊下、菅家の門人の私塾)これに反発する都良香(みやこのよしか)・巨勢文雄(こせのふみお)らとの間で一種の学閥争いが生じていた。
しかしながら、善縄は恬淡(てんたん、欲がない)な人柄で、文章博士の任にあった際に文章生が私邸を訪れても、これを謝絶して学閥争いに関わることを避けたという。
物事に注意が行き届いて慎重であり、
飾り気がなかった。
また、自らの優れている点をもって、
他人を侮るようなことはなかった。
陰陽道を信じて物忌みにこだわり、
物怪(もっけ、不思議なこと)があるごとに門を閉ざし斎忌(さいき、神を迎えるために心身を清浄にした生活を送ること)して人を通らせないようにしたが、その頻度は月に10回ほどにも及んだ。
ただし、高位に昇った後は斎忌のことはやや簡略にしたという。
年老いても聡明さは増し、文章は益々美しくなった。
親戚を除いては自邸に客人が訪れることも希で、酒宴が開かれることもなく家はのどかな様子であったという。
子供は男女四人いて男子は「具瞻(ともみ)」「魚見(うおみ)」(あと一人は不明)などであっなが、家風を継ぐものはなかった。
長女「洽子(あまねいこ)」は優秀で正四位下の典侍(最終的には父と同じ従三位になっている)となっています。
『春澄洽子(あまねいこ)』
大和物語では「糸所別当」として
六首の歌が載っています。
「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい、宇多天皇が醍醐天皇への譲位に際して当時13歳の新帝に与えた書置。)」には洽子朝臣が昔から糸所別当であると記されています。
糸所別当とは平安時代、中務省 (なかつかさしょう) の縫殿寮 (ぬいどのりょう) に属した役所で、端午の薬玉 (くすだま) などを作っていました。
別当とは長官の事ですね。
春澄洽子の和歌は、
古今集、後撰和歌集、大和物語などに
でていて、古今集ならば巻ニ春歌丁に
散る花の 鳴くにしとまる
ものならば
われ鶯に おとらましやは
訳】
散る花を鳴いて(泣いて)
散るの止められるのなら
私は鶯のなどには
負けてはいない
また後撰和歌集巻十二恋歌四には、
逢坂の関と守らるる我なれば
近江てらむ 方もしれず
訳】
逢坂(逢うことを)の
関で守られて(とめられて)いる私に
近江(逢う)の方向など知るよしもない
洽子は
清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の
五代の天皇に仕えた。
初名を高子(たかいこ)といったが、元慶元(877年)2月に陽成天皇が母后藤原高子の名に触れる女官たちに改名を命じたため高子から洽子に改める。
同年11月正五位下。
仁和3年(889年)に従四位下掌侍(ないしのじょう)に進む。
そののちに典侍となり尚侍藤原淑子の下で、光孝天皇の崩御の際には鈴印供奉(れいいんぐぶ)の大役を務めている。
寛平8年(896年)に従四位上。
延喜2年(902年)に従三位の高位を賜った。
特に、宇多天皇からの信任厚く、「寛平御遺誡」には糸所に出仕中の洽子への高い評価が記されている。
醍醐天皇の受禅の際には剣璽使の大役を果たした。
【剣璽(けんじ)は、
三種の神器のうち、
天叢雲剣と八尺瓊勾玉を併せた呼称。
神器の勾玉を璽(あるいは神璽)】
『貞観十五年(873)九月九日辛未、侍従五位上、春澄朝臣高子(たかきこ)は、幣を氏神に奉ずるため、伊勢の国に向かう、天皇より旅の費用として 稲千五百束を賜る』
勅命により
貞観十五年(873)、旧暦の九月九日に
「員弁大神」に奉幣するために
都をたち、郷里の員弁に戻っています。
都から伊勢国員弁までの行程を察すると、徒歩なら現在の道(鈴鹿峠越えのルートでも22時間以上を要しますから、平安時代の道で多くの供連れであることや、難所である鈴鹿峠越えとなると、最低でも、四日程かかり郷里に着いたと思われます。
奉幣する「員弁大神」については二説あり、一つは藤原町長尾の「猪名部神社」、ここは集落の一角に「春澄屋敷」と地元で呼ばれている場所があります。
もう一つは東員町北大社にある「猪名部神社」ともいわれていて、こちらには多数の古墳も存在しています。
また洽子が都を出発したのは旧暦九月九日、その四日後には遅くとも員弁に着いていますから、旧暦九月十三日になり、現在の暦の十月八日となります。
その時の夜空は「満月」に近く(10月10日あたりが月齢14.5日)、『かぐや姫』が十五夜の夜に月に帰った事と不思議と符合するのです。
また、式内社「猪名部神社」は、平安時代の貞観元年(859年)に神階が従五位下、貞観8年(867年)に従四位に進んでいて、これは都での春澄一族の活躍を意味するようです。
〜日本三代実録口語訳
東員町通史 参考
貞観時代の主な出来事は
* 貞観元年(859年)、河内・和泉両国の陶窯用の薪山争いが起こる。
饒益神宝を鋳造する〜「饒益」を「ジョウエキ」と読めば物が豊かなことを現し、「ニョウヤク」と読めば仏教語で物を与えることを意味するとされる
* 貞観6年(864年)、富士山が噴火する。
いわゆる貞観大噴火。
* 貞観8年(866年)閏3月10日、
応天門の変が起こる。
内裏朝堂院の正門応天門が炎上し、これを巧みに利用して伴氏・嵯峨源氏の追い落としに成功した藤原良房は、同年8月19日、天皇の外祖父であることを理由に、人臣として最初の摂政に任命された。
* 貞観10年(868年)7月8日、
播磨国地震が発生する。
日本三代実録によれば官舎、諸寺堂塔ことごとく「頽倒(たいとう)」したという。
前年から引き続き、毎月のように地震があったと見受けられる。
* 貞観11年(869年)、格12巻が完成する。
貞観地震とそれに伴う貞観津波が発生する。
貞観の入寇(貞観11年869年6月から、新羅の海賊、艦二艘に乗り筑前國那珂郡*博多の荒津に上陸し、豊前の貢調船を襲撃し、年貢の絹綿を掠奪し逃げた)が起こる。
* 貞観12年(870年)、貞観永宝が鋳造される。
〜物価が高騰し銭の価値が低下しているため、貞観永宝1枚に対し旧銭10枚の交換比率が設定された。
* 貞観13年(871年)、式20巻が完成する。
これにより貞観格式(じょうかんきゃくしき)が完成した。
鳥海山が噴火する。
* 貞観16年(874年)、開聞岳が噴火する。
となっています。
『続日本後紀と善縄』
平安時代(貞観年間前後)は
朝廷では皇位の継承問題で承和の変やそれ以前には薬子の変、有名な応天門の変も起こっています。
その中で皇位の継承の正当性を主張する「続日本後紀」などが編纂されてもいます。
この続日本後紀を中心的に
編纂を成し遂げたのが
猪名部造出身の「春澄善縄」です。
地方の下級官人出身の善縄が中央で出世するには相当な努力と才能を持ち合わせていたことは想像できます。
また、娘の高子(洽子あまねいこ)は時の中宮藤原高子に仕え、仁和3年(889年)に従四位下掌侍に進む。
そののちに典侍となり尚侍藤原淑子の下で、光孝天皇の崩御の際には鈴印供奉の大役を務めてます。
寛平8年(896年)に従四位上。
延喜2年(902年)に従三位の高位を賜り、特に、宇多天皇からの信任厚く、「寛平御遺誡」には糸所に出仕中の洽子への高い評価が記されています。
また醍醐天皇の受禅の際には
剣璽使の大役を果たしています。
歌人としても藤原淑子のサロンで活躍し、大和物語にも登場します。
「続日本後紀」では宇治稚彦皇子(菟道稚郎子)が仁徳天皇に皇位を譲った例をあげ、淳和天皇から仁明天皇へ皇位が移ったことを正当化しようとしたのだろう。
恒貞親王派であり、王仁の末裔の舟連に所縁がある善縄は
どんな思いで
続日本後紀を編纂したのだろうか?
『竹取物語のかぐや姫の使命』
かぐや姫は
禍いをもたらす火星(熒惑)となり、
自らを犠牲にして月に隠れて、
禍いをなくそうとしたのです。
これは
スサノヲが天界(高天原)を去り、
地上に豊穣をもたらし、
地下に潜って穢れを祓うのと同じ
なんですよ。
春澄善縄(猪名部氏、伊勢斎部)
春澄洽子
猪名部氏の祖神は天津赤星。
禍いは
貞観時代
(平安時代前期の政変や天災、
富士山の噴火など)
御室戸斎部
(かぐや姫の名付け親)は
京都の三室戸寺の事で、
寺の山号は明星山、星なんです。
お寺のご本尊を見つけたのは
藤原犬養、
この人物は実在の人物ではなく、
奈良時代の女性、
県犬養三千代という女性が
モデルと推測しています。
三千代は橘氏を起こし、
後に藤原不比等に嫁いでいるんです。
春澄善縄の妻は、
この橘氏
(橘 島田麻呂、橘長者の娘)出身
なんですよ。
つまり、
洽子は
三千代の末裔とも言えるのです。
文、蛯原春比古さまに
帰属します!
ありがとうございます!
5人の公達
あへなし
あなたへがた
かひなし
はぢを捨てる
たまさがなる
この言葉
そして
陰陽道
貞観の天変地異
これらが
「かぐや姫」を生んだとは!