命日 | ネマリンミオパチーに奮闘中

ネマリンミオパチーに奮闘中

ネマリンミオパチーという先天性筋疾患と闘いながら毎晩呼吸器のお世話になって明るく生きてます。

今日1月17日は叔母さん(母親の妹)の命日です。


そして、実家のお隣の工務店のご夫婦、同じ障害者仲間のNさん(肢体障害)、同じく障害者団体で私と同じく役員をしていたSさんのご両親とお兄さん、娘のお友達のお父さん、みんな、みんな、今日がご命日です。



あの日も今日のように寒かった朝でした。


何時間たったころだろうか?

隣町に住んでいた妹から電話が入った「叔母さんとこに電話がつながらへん。そっちから見てきて実家の方は旦那が見に行っているから。。」


部屋中はタンスなどが全てひっくり返っていましたが、何とか家族3人無事だったので、自転車をお隣さんに借りて(もちろん自動車で行ける状態ではなかった)、我が家のマンションから北へ約1キロのところにある「叔母の家」に様子を見に行きました。


残念ながら、少し古い日本家屋だったので全壊状態で、叔母の名前を叫んでも返答はありませんでした。

叔母の家の一区画のうち平屋の1軒だけ残して後の8件は全て全壊していました。


北隣りの平屋のお家からご婦人が出てきて、「叔母さんの名前を私も呼んだけれどダメだったよ」と言われて、あきらめてそのまま2号線伝いに同じ町にある実家の様子を見に行った。


途中、自動車販売店のショールームのガラスの破片に気をつけながら2号線を西へ自転車を押して歩道を歩いていると焼きたてフランスパンで有名な「ビゴの店」があった、そこから飛び散ったパン粉にまみれたのか頭や顔が粉だらけにになった若い女性従業員が「朝から焼いていたパンです、良かったらどうぞ。。」と避難している人や私みたいに安否確認をしている道行く人に「焼きたてのちょっと埃も混じったパン」を配っておられた。


私も自分の分と両親の分として3切れ礼を言ってもらった。

その隣の自販機で飲み物を買おうと思ったら、すでに「お茶やミネラルウォター類」は売れきれで唯一つ「ビタ○ードリンク」が残っていたので買えるだけ買った、5本残っていた。

それを持って、実家に着いたら予想通り実家も古い作りだったので全壊していた、様子をみていると2軒隣寿司屋さんの奥さんが出てきて「お母さんたちはコープさんの従業員寮のビルに避難しているよ、お二人とも無事だよ」と言われて、JR沿いにある従業員寮に行ったら母親が近所の方たちと避難していた。

親父が居なかったので尋ねるとちょっと頭を怪我しているので、妹の旦那が連れて帰ったと言っていた。


お袋は実家が心配だから皆とここに居るというので、貰ったパンと5本のドリンクを渡して帰ってきた。

その時、実家の北隣の奥さんが上から羽織るものが無いと言うので私が着ていたコートを差し上げた。



自宅マンションへの帰り道、知らない叔母さんから、「良かったら飲んで」とヤクルトを頂いた。


そのまま、まっすぐに自転車で南に向かっていったら国道43号線で信じられない光景を見た。


まるでハリウッド映画のシーンのようだった。。。。



ネマリンミオパチーと時々株に奮闘中


さすがにこの光景にはびっくりして、暫くはその場を離れることが出来なかった。



叔母に会えたのは、震災後5日経ってからだった。

体育館が避難所になっていた中学校の各教室に町名ごとに遺体が安置されていた、叔母は棺に入れてもらっていたが、棺が間に合わなかった犠牲者の中には毛布に包まれたままの方が何人も入り口付近におられた。


叔母の顔は幸いにも、少し血がついていたが綺麗なお顔だった。

検死医の話ではショック死で即死状態だったようです、あまり苦しまなかったようで良かった。。。


しかし、それまで私は翌日から毎日、叔母の家に自転車で様子を見に行ったが、自衛隊や消防の方たちは叔母の家には手がまわらなかったようだ。

「助かる可能性のある人が優先」だそうです。


昨年だったか、震災記念番組で紹介された震災当日も京都新聞社の印刷工場で新聞印刷した「神戸新聞」に載った、有名な記事(社説)があります。


被災者になって分かったこと(神戸新聞1995年1月20日付「社説」)


詳しい全文はこちらで紹介されています。

http://blog.goo.ne.jp/s23k16/1