青葉吹き 糖質オフと 願いけり | 神田勇哉のブログ

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フルーティスト 神田勇哉の日記




東フィルSNSより



武満賞のコンサートの時に指揮の杉山洋一さんが言ってたんだけど


「皆様、こちらの作品は、武満さんみたいな作品のポワンポワンとは違うんです。」
「イタリア人の彼のこの作品は基本的にもっともっと歌ってください!」
「別に武満が歌わなくて良いって意味じゃないんだけど…
ただの伸ばしでも、まっすぐではなくて、歌いこんで行く必要があります。」

うーむ、なるほど。
忘れがちだけど、これって物凄く大事だ。



私が学生の頃、ブーレーズのソナティヌをコンクールで吹いた時に
審査員の1人ベルノルド教授に
「もっともっと歌って!これはドビュッシーと同じなんだよ!」
と言われた。


もう一つ 
かの巨匠オーレル・ニコレも
ベリオのセクエンツァI を聞いて
「これはイタリア人同士の会話なんだ。もっと感情とストーリーをこめて!」
とマスタークラスで言っていた。



ヨーロッパでは伝統音楽は
長い歴史絵巻として存在している。

グレゴリオ聖歌から始まりクラシック音楽を経て現代音楽やポップスへと続いて来ているので、

どんな音楽でも、
新しいスタイルの模索や表現の激化はあれど
クラシックで培った感覚や奏法は残しているべき、というのがデフォルト。


一方 我々の感覚では、日本の伝統音楽の中に
西洋音楽がポッと現れて
クラシック音楽だけでなく現代音楽というジャンルもあるらしいぞ。
なんて背景があるもので
それぞれが別のモノとして認識してしまいがち。

でもヨーロッパの奏者は、どんな曲だろうが
常に根底には喜怒哀楽と歌があるべき、と考えている…

そういう話なんだけど、


じゃあそれが絶対正しいのか?
歌わないのが悪い事かというとそんな事もなくて

例えば前述のセクエンツァI に関しては
木ノ脇道元さんは、
「音をコラージュしていく感覚」
と言っていて、
これまたとても興味深い解釈だと思った。


自然界には存在しないサウンド。

いきなりフォルテからピアノの羅列とか
逆再生した音とか、ディレイとか。

コンピュータありきで生み出される音響から受けるインスピレーションも
芸術の一つとして面白い。




1940年とか、1980年とかの作品はすでに現代の音楽じゃないのに
印象派より後のものをみんな「現代音楽」ってひっくるめて呼ぶのは、
個人的には好きじゃないけど
他に変わる言葉がないからしょうがなく使うけど、


これらの音楽にも幅広いジャンルがあって

ぼーっと空間の音を聞き続ける曲から
古き良き日本のコブシで攻める曲、
音符をディジタルに並べてある曲や
ネタに特化した曲、
果てはほぼ舞台の、演技のみの世界だったり…


それに応じて演奏スタイルを適合させるには
自分のボキャブラリーも豊かでないといけない。

勉強は果てしないです…



私が18才の頃、
「譜読みのめんどくさい曲に挑戦してみよう」と思って、前述のセクエンツァを暗譜で吹いたが、

当時はあまりよく分かってなかったので
とにかくガビガビ吹いてたら
その頃芸大にお勤めだったP・マイゼン先生に
「ちょっと攻撃的すぎだなぁ。」
という感想を頂き

ただ吹くだけじゃダメなのか…と思った。


今思えば当たり前なんだけど、

当時は譜読みと暗譜に100%エネルギーを使っていたので、
神田少年のポテンシャル的にそれ以外に割り振るメモリは無かった。



だが、歴史は繰り返す。

今若手の演奏を試験やコンクールで聞くと
「現代音楽ってこんな感じっしょ?」
と言わんばかりの演奏が多い。

セクエンツァを暴力的に
武満のボイスを勢いで
カッサンドラを攻め攻めで…

結局、若い奏者の表現の守備範囲がせまい事は
人生経験次第でしょうがないので、
「よく譜読みのめんどくさい曲に挑戦したね。
えらい!」
と、とりあえず褒めてあげるんだけど、


どういうコンセプトの音楽なのか?
他の曲に対してこれはどういった位置づけなのか?
なんであなたはこの曲を演奏するのか?
どこが気に入ったのか?きかせたいのか?

まで本当は突き詰めさせてあげないといけない。


でも現実は…

「そんな尖ったのやらなくて良いから
まずモーツァルトをうまく吹けるようになりましょう。」
という方針の先生の方が多い。


これが正しい事なのか間違ってるのか僕には分からない。

ただ世の中の現代音楽シーンの予算が毎年少しづつ削られてるという ひとつの現実がある。



上で「よく譜読みしたね!えらい!」
と書いたが、
それってホリエモンが
「野菜食べてて えらい!」って言われて激怒したのと同じで、笑

結局「頑張って現代に挑戦してみました」
じゃなくて、
この曲が「面白いと思ったからやる」
という姿勢が正しいのだ。


学生さんの中にはたまに
現代モノが好きで好きでたまらないという逸材がいて、
そういう子は突き詰めまくって
ヨーロッパに渡って現代音楽集団の一員になっていたりする。

かくあるべき姿。




話飛んで…

この前 音楽関係ないお仕事の方と話してて
街で見かけるインスタレーションのサウンドの話になって、

展示に合わせて、現代のクリエイターが聞きやすい有調音楽をプロデュースしていたのだが、

僕が
「ああ、BGMは現代音楽なのね。」 
と言ったら

その方は
「いや、違うよ、これは普通の音楽だから現代音楽じゃないよ。」

と話が噛み合わなかった。


その人からしたら
調のある、聞き馴染みのある音楽は
「普通の音楽」で

無調で訳分からないドーン ガシャーンてのが
「現代音楽」って認識なんだな、

と理解した。


まぁ、これは言葉の概念の話だけど…😅