漢人 (あやピト) と 秦人 (はたびと)
この地は?!
「縁(ゆかり)を感づる。」
ー・→
少し昔、
今上天皇が韓国を訪れた際、
「縁(ゆかり)を・・」発言の記事を韓国のマスコミが 大きく ⇔ 日本のマスコミは 小さく 取り上げた事が話題になっていました。
ー?→
例えば?!
父さんが日本人、母さんがペルシア人だとすると、その子 → 子孫は → 日に日に → 日本人となり、かつてはペルシア人であった事を忘れる場合も考えられます。 ⇔ しかし、心の片隅で縁(ゆかり)を感づる事もあるかもしれません。
… 最近のブログで →
7世紀ころ、
百(たくさん)の今来人(プヨピト)が日本にやって来ました。
… 関連情報 →
今木神 (いまきのかみ) は京都平野神社の祭神。
桓武天皇の生母で、百済系渡来氏族の高野新笠 (たかのの-にいがさ) の祖神。今木は今来 (新来) の意味。大和国高市郡に住みついた渡来系の人々により祀られていたが、奈良の平城京 ~ 京都の平安京へ「遷都」にともない京都にうつされた。https://kotobank.jp/word/今木神-1056340
*旧・今来郡 → 高市郡。
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もう一度、
あの時の 今帰仁城 (なきじんグスク) ついて、
「今帰仁(なきじん)」
その語源は定かではありませんが、今鬼神、今来人。今来人(新参者)≒ 平家の落人が築城した「石垣造りの城」など云われ・・https://ameblo.jp/yuukata/entry-12365777624.html ← と載せて見ました。
そのほか、小数説では 今木神(百済の神)と説もあります。また、『平家と百済』⇔「源氏と新羅」は縁(ゆかり)がある。と事もよく云われています。
(・・!実は?!
平安京の桓武天皇は子だくさん 云われています。
桓武天皇の第1皇子は51代・平城天皇、第2皇子は52代・嵯峨天皇、53代・淳和天皇は第7皇子。
*葛原親王は天皇になっていない
葛原 (かずらわら) 親王の子孫が、桓武平氏 → 坂東平氏 → 秩父平氏、伊勢平氏など「武家の始まり」にも通じ、一般的に伊勢平氏のことを「平家」と呼んでいるようです。
*平清盛も伊勢平氏(平家)
*今木神(百済の神)
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(・・? これまでの文を思い出すと?
ヤマト王権にとつて、かつて朝鮮半島にあった百済国の影響は非常に大きいようにも思えて来ました。
*7世紀 ~ 8世紀にかけて、
7世紀ころ、
ある「政変 / 戦乱」を期に、摂津国の難波には、百済王族の子孫 → 百済王(クダラのコニシキ)氏が多く移り住んで来たとも云われています。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12366997940.html
ー?→
また、ある「政変 / 戦乱」は、国外での「政変 / 戦乱」であると同時に 国内の「政変 / 戦乱」でもあったと云われています。
*内戦をしつつ外戦?
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金達寿氏によると、
日本古代史と朝鮮 (講談社学術文庫) 1,080円 Amazon |
古代のヤマト王権は「国外」でも『国内』でも、新羅系・秦人(はたびと)と百済系・漢人(あやピト)の対立構図ような物があった。載っていました。
*ような物 ≒ ニュアンス?
金達寿氏の本の内容とは異なるかもしれませんが、
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というのは? 漢帝国の時代、
*楽浪郡は平壌 (ピョンヤン) 辺り、帯方郡は漢城 (ソウル) 辺り。
*新羅の前身 → 辰韓 (秦韓) には秦帝国の偉民が多くいたといいます。
… 歴代中国政権は →
秦 → 漢 → 三国時代 (魏・呉・蜀) → 続きます →
「秦」を亡ぼした「漢」は「魏」に滅ぼされます。
AD 238年 魏 が 漢の公孫氏を亡ぼし、公孫氏が支配していた帯方郡を支配。
AD 313年 高句麗が楽浪郡を亡ぼし、帯方郡も滅びる。
ー・→
漢帝国の直轄地・帯方郡にいた漢人(あやピト)は、
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あまり正確な お話ではありませんが、
ここでは、そんな感じ(ニュアンス)で人々の移動(流れ)が行われていた。と考えて見ました。
そうした人々の移動(流れ)は、日本にも影響を与えていました。
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5世紀の応神朝ころ、
秦 (はた) 氏と漢 (あや) 氏が日本にやって来ました。
秦氏と漢氏は、政治や祭祀 (経済) に関わる渡来人で、1度に1方向から来たのではなく中国大陸や朝鮮半島での「政変 / 戦乱」を主に、時間差でやって来たと云われています。
よく云われるのは、
東漢 (やまとのあや) 氏は 大和 国に、西文 (かわちのふみ) 氏は 河内 国に、秦 (はた) 氏は 山の後ろ → 山背 (やまうしろ / 山城) 国に多く住んでいたと云われています。
*東漢氏と西文氏は漢氏
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そのほか、秦 (はた) 氏と漢 (あや) 氏の渡来以前に、倭人 (呉族と越族) が日本に渡来していました。
*倭人 ≒ 呉族と越族
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(・・; 内容はダイブ飛んでいますが;
*葛原親王は天皇になっていない
葛原 (かずらわら) 親王の子孫が、桓武平氏 → 坂東平氏 → 秩父平氏、伊勢平氏など「武家の始まり」にも通じ、一般的に伊勢平氏のことを「平家」と呼んでいるようです。
*平清盛も伊勢平氏(平家)
*今木神(百済の神)
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(・・? 一説によると?!
葛原 (かずらわら) 親王は、葛城氏の腹(はら / 原)から生まれた親王とも云われています。
さかのぼること、
奈良時代(大仏建立時代)の聖武天皇と光明皇后の家系図を見ても、藤原氏であり葛城一族(賀茂氏など)である事が解ります。
*藤原氏は新王権 ⇔ 葛城氏は旧王権
… ヤマト王権の主導豪族 →
葛城一族(賀茂氏など)→ 大伴氏 → 物部氏 → 蘇我氏 → 藤原氏 → 平家(6ヶ月ほど)→ 藤原氏 → 続いています →
東大寺・大仏建立事業をした聖武天皇は、遷都マニア? 情緒不安定? 短期間 / 5年間で何度も遷都を繰り返し「聖武の彷徨」と云われています。
*祟りに怯えてたとも
741年に平城京から恭仁京(葛城一族の拠点)に遷都 → 続いて、744年に難波宮へ → 745年に紫香楽宮 → 同じ年に平城京へと戻っています。
*葛藤していたとも
↑葛藤(かっとう) ← 葛城氏の子で藤原氏の子? とも?
… 不思議な お話 →
あの時の大仏建立事業では、百済王族の子孫が深く通じていました。https://ameblo.jp/yuukata/entry-12366997940.html
実は?!
東大寺・奈良の大仏は、百済仏教ではなく ⇔ 新羅仏教(華厳宗)だと云われています。
*百済と新羅は犬猿の仲?
━↓─━─扉─━─↓━
さかのぼること、
大仏開眼の年に派遣された遣唐使の大伴宿祢古麻呂 (おおともの スクネ こまろ) が、唐の皇帝に謁見 (えっけん) する儀式に際して抗議をしました。その理由は、日本の使節の席が新羅の使節よりも下座にあったことであった。唐側が決めていた席順は、新羅が東の1番、日本は西の2番。ところが古麻呂の抗議で新羅と日本の席が入れ替えられたというのである。
さかのぼること、
大仏開眼の年に派遣された遣唐使の大伴宿祢古麻呂 (おおともの スクネ こまろ) が、唐の皇帝に謁見 (えっけん) する儀式に際して抗議をしました。その理由は、日本の使節の席が新羅の使節よりも下座にあったことであった。唐側が決めていた席順は、新羅が東の1番、日本は西の2番。ところが古麻呂の抗議で新羅と日本の席が入れ替えられたというのである。
ペルシア語でアラビア系の人を意味するタージークーを唐では「大食(タジク)人」と漢字表記していたようです。
*トルコ系の人は突厥(テュルク)人
後ほど、
大食(タジク)人が多く住む国はタジキスタン、突厥(テュルク)人が多く住む国はトルクメニスタン。呼ばれたとも云われています。
奈良の大仏 ≒ 新羅仏教(華厳宗)の発祥地は、西域の国・ホータンと云われています。
日本の古語では「海」のことを「和田(わた)」といい、古代朝鮮語では『海』のことを『パタ』と発音していたので、新羅の前身 → 秦韓に住んでいた秦(パタ)氏が語源と説もあります。
*海(パタ)を渡って来た秦(パタ)氏?
(・・? 現在?!
奈良の大仏 ≒ 新羅仏教(華厳宗)の発祥地・ホータン国は『和田(ホータン)』と漢字表記されているようです。https://kotobank.jp/word/ホータン-869578
意味不明なブログになっておりますが、
何かの鍵(カギ)があるように思えて来ました。