今日は大仏の日 | お試しブログ

今日は大仏の日

奈良時代の重要人物に、
百済王敬福(クダラのコニシキのキョウフク)という人物が登場します。

百済王は「百済の王様」と意味ではなく、『百済の王族』の『子孫 ≒ 氏族』と意味で、百済王(クダラのコニシキ)氏という氏族の名前だといいます。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/百済王氏

(・・? 古代ヤマト王権には「氏姓制度」があり、有力な豪族は『氏(ウヂ)姓(カバネ)』2つを持っていたようです。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/氏姓制度

氏(ウヂ)は、祖先 / 血縁を同じくする家の集団 ≒ 氏族。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/氏

姓(カバネ)は、古代ヤマト王権において、大王(おおきみ ≒ 天皇)から有力な氏族に与えられた王権との関係・地位を示す称号。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/カバネ

百済王敬福(クダラのコニシキのキョウフク)の場合 → 百済は氏(ウヂ)、王は姓(カバネ)、敬福は個人名? ように思います。

同様に、高麗王若光(コマのコニシキのジャッコウ)の場合 → 高麗は氏(ウヂ)、王は姓(カバネ)、若光は個人名?

(・・! 現代に当てはめると?!
長嶋茂雄 → 貞治 → 百済王敬福長嶋茂雄 → 貞治 → 高麗王若光。といった感じかと思います。

ー?→

ご迷惑をおかけします 古代の朝鮮半島に、ご迷惑をおかけします
百済(ペクチェ / くだら)と 高句麗(コグリョ / こま)と国があり、百済と高麗(高句麗)からの渡来氏族(百済氏高麗氏)に「王(コニシキ)」という「姓(カバネ)」が与えられていたようです。



(・・! そうすると?!
渡来氏族である「百済王氏と高麗王氏」は、『氏(ウヂ)姓(カバネ)』2つを持つ有力な豪族であった事が解ります。

実は!?  渡来氏族である「百済王氏と高麗王氏」は、有力な豪族どころか『日本の歴史そのもの』であるようにも思う事もあります。
*日本史 ≒ プヨ史?



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https://ja.m.wikipedia.org/wiki/高句麗

一説によると、
高麗 (こま / 高句麗) の由来は、高氏の『句麗 (石城) 』という意味だと云われています。

百済氏高麗氏」は、もとは同じ扶余国の『扶余 (プヨ / 夫餘) 族』であったと云われています。

中国東北部に住んでいたツングース系の扶余 (プヨ / 夫餘) 族の朱蒙 (チュモン / しゅもう) が高麗 (こま / 高句麗) を建国したと云われています。


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(・・! 韓流ドラマによると?!
高句麗は扶余(プヨ)国の王族・朱蒙(チュモン)が建国したと云われています。

高句麗の始祖である朱蒙(チュモン)には3人の子がいました。長男の瑠璃 (ルリ) 、次男の沸流(ピリュ)、三男の温祚(オンジュ)。
そのうち、次男の沸流 (ピリュ)と三男の温祚(オンジュ)は、東扶余(プヨ)の有力者の娘・召西奴 (ソソノ) との間にできた連れ子だという。

扶余国の中では、朱蒙(チュモン)は煙たい存在で王族(家族)からは見放されていました。

朱蒙(チュモン)は、扶余国で長男の瑠璃 (ルリ) を生んだ後、王族から捨てられる形で下町を放浪していました。そこで、東扶余(プヨ)の有力者の娘・召西奴 (ソソノ) と出会い恋仲になります。
*召西奴 (ソソノ) との間にできた子が次男の沸流(ピリュ)と三男の温祚(オンジュ)。

後ほど朱蒙(チュモン)は、下町から扶余国の宮廷に戻り、政権を動かします。そして、扶余国から派生する形で高句麗という国を建国。

朱蒙(チュモン)の長男・瑠璃 (ルリ) が高句麗を継ぎ、次男の沸流(ピリュ)と三男の温祚(オンジュ)は身を引く形で、わずかな家臣と百姓を連れ、高句麗を出て朝鮮半島の南へと向かった。

ご迷惑をおかけします 三国史記百済本記によると、 ご迷惑をおかけします
沸流 (ピリュ)と温祚(オンジュ)は、朱蒙が生まれた東扶余の有力者の娘・召西奴 (ソソノ) の連れ子としており、ドラマは伝説にフィクションを加えている。との事。

朝鮮半島の南・漢山の地に辿り着いた沸流 (ピリュ)と温祚(オンジュ)でしたが、都の設置場所について「沸流派」と『温祚派』2つ派閥に分別。

三男の温祚 (オンジュ) は漢山の慰礼城(京畿道広州市辺り)に都を置き。その時、自分に従った10人の家臣にちなんで、国の名を「十済」としたといいます。

  ⇔  一方、

次男の沸流 (ピリュ) が選んだ土地は塩気の多い土地で、あまり作物も育たづ発展することなく、苦労を重ねたという。

後ほど次男の沸流(ピリュ)は、病気あるいは自害したとも云われて亡くなります。そこで取り残された家臣や百姓たちが三男・温祚(オンジュ)が建国した「十済」にやって来ます。

(・・? 十 (少し) →  百 (たくさん) ?

百(たくさん)の人々が「十済」にやって来たので国名も『百済』になった? といいます。

ドラマの内容が史実かは? 解りませんが、三男の温祚(オンジュ)王が百済の初代国王と事は確かのようです。



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高句麗 (コグリョ / こま) の南にあった百済 (ペクチェ / くだら) は、高句麗から派生 (枝分かれ) した国で、同じくツングース系の扶余 (プヨ) 族が支配する国でした。
*ツングース語では鹿(プヨ)

扶余 (ヨ) 族の特長は、
駒人 (こまト) である事、音を多用する事 → 1分(ン)⇔ 2分(ふん)→  日本橋(ニッンばし)⇔  日本橋(にほんばし)など。石造り / 石信仰が見られた事、鹿(プヨ)をトーテムとし、鹿(プヨ)を殺める事を強く禁じていた。などです。
*日本では、鹿島社や春日社、物部氏 → 蘇我氏 → 藤原氏など‥ その影響が見られます。

ー?→

7世紀ころ、
ある「政変 / 戦乱」を期に、

日本の西国に百済系・扶余 (プヨ) 族 ⇔ 東国に高麗系・扶余 (プヨ) 族が亡命して来た。と云われています。

ある「政変 / 戦乱」が起きた時のヤマト朝廷は、難波宮を拠点としていたようです。

難波宮は、
上町台地の高台 → 大坂にあったといいます。

7世紀ころ、
ある「政変 / 戦乱」を期に、摂津国の難波には、百済王(クダラのコニシキ)氏が多く移り住んで来たとも云われています。
*百済王族の子孫

ー?→


663年ころ、百済と日本の連合軍は唐・新羅連合軍に敗れる。

後ほど、
668年ころ、高麗 (こま / 高句麗) は唐・新羅連合軍に亡ぼされた。

ー?→

当時、
ヤマト朝廷は難波宮を拠点としており。

摂津国の難波には西生郡東生郡住吉郡百済郡の四郡が設置され、古くから四郡は『百済国』と縁ある地であったと云われています。

百済郡(くだらのこおり)は、かつて摂津国にあった郡。西生郡東生郡住吉郡と並んで「江南四郊」のひとつに数えられたが、平安時代末期までに隣接の東生郡と住吉郡に編入されて消滅した。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/百済郡

 ー 百済郡の残照 ー 
東住吉区には、西日本最大の貨物駅である百済駅がある。同区内には、市立南百済小学校、百済本通商店街、百済大橋などもあって、古代朝鮮の国名である百済の名を今に残している。今の東住吉区から平野区、生野区、東成区の南部にかけて摂津国百済郡が置かれたのは、西暦六六〇年の百済滅亡から間もないころのことだったと思われる。多くの亡命者が日本に渡ってきたのは、百済がもともと朝鮮半島で最も日本と親密な国だったためである。亡命者の中には王族も含まれ、渡日後まもなく有力な役職に任じられたものも多い。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/百済郡



ご迷惑をおかけします その四郡うち、 ご迷惑をおかけします
摂津国百済郡には、7世紀ころ「政変 / 戦乱」を期にやって来た百済国の王族が多く住まうようになったようです。

しかし、王族が河内国交野(いま枚方市付近)に本拠を移したことで、平安中期から「摂津国百済郡」の地名は消えてしまいました。とある。

(・・? 平安中期から「摂津国百済郡」の地名が消えるようになったのは、奈良時代の749年に、百済王敬福(クダラのコニシキのキョウフク)が陸奥国で発見した金を平城京の聖武天皇へ献上した事と関連しているようです。



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当初、百済王族の子孫・百済王氏の本拠地は 摂津国難波(いま大阪市)にあったが、後ほど 河内国交野(いま枚方市)に本拠を移し、この地に百済王の祀廟と百済寺を建立した。百済寺は中世に焼失したが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残る。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/百済王氏
と、あります。

ー・→

 ー 摂津国難波 ~ 河内国交野へ ー

奈良時代 / 749年
平城京の都で聖武天皇による東大寺・大仏建立事業が行われている最中、百済王敬福(クダラのコニシキのキョウフク)という人物が登場します。

『続日本紀』によれば、
当時、陸奥国で東北経営を担当していた 百済王敬福 は、当地で大仏建立に使用する金を発見し、平城京の聖武天皇へ献上した。それによつて、従五位の陸奥守 ~ 従三位の河内守(国司)へと異例の昇進(大出世)を果たした。これを契機として、百済王氏 一族の本拠地も摂津国難波 ~ 河内国交野へと移した。といいます。


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東大寺・大仏建立事業をした聖武天皇は、遷都マニア? 情緒不安定? 短期間 / 5年間で何度も遷都を繰り返し「聖武の彷徨」と云われています。
*祟りに怯えてたとも


741年に平城京から恭仁京に遷都 → 続いて、744年に難波宮へ → 745年に紫香楽宮 → 同じ年に平城京へと戻っています。


難波宮は 7世紀 / 645年に孝徳天皇の時代に難波に遷都した後、しばらく風化しておりましたが、8世紀 / 聖武天皇の時代に再整備され、平城京の副都になっていたようです。https://ja.m.wikipedia.org/wiki/難波宮


(・・! 実は?!

聖武天皇が祟りに怯えて?「聖武の彷徨」を繰り返していた頃 / 744年に遷都した難波宮で百済からの渡来人が造った仏像を見て東大寺・大仏建立事業を決意したと云われています。


(・・! さらに?!


 ‐ 大仏建立について ‐

東大寺・大仏建立を発願したのは聖武天皇。

大仏鋳造事業の総監督は、
国中連君麻呂(くになかのむらじきみまろ)。

技術的指導者は、
高市大国真麿(たかいちのおおくにまろ)。

労力担当者は、
行基(ぎょうき)。

であったようです。http://www.zengaikyo.org/rekisi/a-1-05.htm 大仏建立をした人々。そのほとんどが『百済』と縁ある様子が見られます。


よつて、

東大寺・大仏建立事業?はてなマーク ?

百済王族の影響は非常に大きい。

と事です。




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752年の今日、東大寺の大仏開眼供養が行われたみたいだよ。


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