第3回 どこでもドア | お試しブログ

第3回 どこでもドア

わたくしは、

王様になるつもりは、

ございません。

蔭で兄上様を支えておりまする。


―…―…→


越来村(現・沖縄市)の越来城(ごえくぐすく)には、越来王子が住んでいました。

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沖縄謎とき散歩―海洋に育まれた輝かしい琉球の歴史を訪ねて/廣済堂出版



当時、本店が「首里城」天秤座支店が「越来城」の関係で、越来王子は、第一尚氏・尚巴志の7男で、王様は5男の尚金福でありました。

第一尚氏の時代(南北朝時代)に三山国に分別していた沖縄島を統一して琉球国が誕生しました。


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北山王・はにじ⇔中山王・察度(さっと)⇔南山王・承察度(うふさと)というふうに三山国に分れていたのを、第一尚氏が三山国を統一して琉球国が誕生しましたが⇔第一尚氏の時代、まだ完全に安定した状態ではありませんでした。


実は、越来王子は「陰謀王子」でありました。

http://ameblo.jp/yuukata/entry-11317306927.html 陰謀に「いんぼう」を重ねて王様になりました。



―…―…→



1453年

第一尚氏・5代目の尚金福が亡くなると⇔王の「子」である志魯(しろ)と「弟」である不理(ふり)が王位継承権を争い「首里城」が炎上しました爆弾そして、「志魯と不理」ともに戦死しました。越来王子から見ると目不理は「兄」で志魯は「おい」でありました。


5代目「王」の「子と弟」ともに亡くなったので⇔「弟の弟」→越来王子が第一尚氏・6代目の尚泰久となりました王冠2王位継承権に興味を見せていなかった越来王子は、「平家」関係者の力を借りて王様になりました。


第一尚氏は、「源氏」です。


おそらく「わな」を仕掛けた第一尚氏・6代目の尚泰久=越来王子は、失った「平家」関係者の祟りを恐れて、仏教に帰依します。同時に多くの僧侶もやってきました。多くの寺院建立、銅鐘製造などの国庫支出は、財政を圧迫し、第一尚氏の国力を弱め⇔7代目尚徳王で第1尚氏は滅び⇔側近であった内間金丸がクーデターを起こし、第2尚氏・尚円王(内間金丸)が誕生します。どうして?同じ「尚氏」なのか?というと→冊封体制下の属国であった琉球王は明国より「尚」という「氏」を与えられていました。易姓革命の思想により⇔違う氏姓も可能でありましたが⇔手続きが面倒くさいあせると?いう事で同じく「尚氏」を名乗りました・・



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元々、南九州は「平家」の地で天秤座沖縄島の北部は「源氏」の地でありました。

鎌倉時代に、源頼朝の隠し子→島津忠久がやって来ると天秤座南九州は、平家の地から源氏の地に「代替」して⇔奄美郡島と沖縄島の北部は、平家の地に「変換」しました。そして、沖縄島の中南部は源氏の地になりました。

通説では、
鎌倉時代ころより、南九州は源氏→奄美諸島と沖縄島の北部は平家→沖縄島の中南部は源氏→先島諸島(宮古・八重山)は平家というふうになっています。

源氏→平家→源氏→平家→になっていました。

源氏の鎌倉幕府は3代で滅亡し⇔平家の北条氏が執権政治を行なっていました。その後、平家の北条氏は源氏に亡ぼされました。

平家の落人は、日本列島の「隅や山」に逃げました→

またその後、平家を亡ぼした源氏は、「内紛」から南北朝に分別しました。

京都の室町幕府が「北朝」⇔奈良が「南朝」という南北朝の動乱期を経て、「北朝」の室町(足利)幕府が誕生しました。

南朝の落武者は、平家の落人と同じく天秤座日本列島の「隅や山」に逃げました→


またまたその後、「北朝」の足利家でも「内紛」が起きました。




雷      雷      雷


敵の「てき」は味方だ爆弾

そして、何もかも→「南朝」の落武者も利用しました→

南朝の落武者には「おに」と呼ばれる人々も不随していました。彼らは、平家の落人と同じ「隅や山」に逃げていたという事は天秤座と言ふこと‥

そして、何もかも→「おに」も利用していました→

「私はスパイです」という隠密(おんみつ)はいないので⇔通説の通り通じません。

鎌倉時代の以前から、日本列島の「隅や山」には『鬼神』が住んでいました。

鬼神→源氏→平家→南北朝と「おに」→そして、隠密もやってきました。




─━─ドア━─扉─━ドア─━─



話しはダイブ飛行機飛んでしまいました。

越来城は伊波城⇔座喜味城⇔中城城⇔勝連城の間にある「どこでもドア」 の場所にありました。


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琉球王国の歴史―大貿易時代から首里城明け渡しまで/月刊沖縄社


通説だと・・
沖縄本島の中南部は「源氏」⇔北部(やんばる)と先島・宮古群島→そして、道島・奄美群島は「平家」だ・・という事になっていました。


沖縄島の西側にある「慶良間」諸島の、慶は「けい」と読まず「け」といいます。それは「慶」は「毛」に当てはめて「もうそう」をしてみました。もともと毛利(もり)は「森」を、毛は「野・山」を意味しておりました。阿、安(あ)という地名が多く、宮平さんが多く住んでいます。平、盛、守、森、清、阿とか安(あ)→吾は、「平家」の落人伝説に多い名称である。そして、南北朝に分別した→源氏の「南朝」の落人は、「平家」の落人部落によく登場します。全国的に「南朝の落人」は、「平家の落人」伝説と同じ部落に集まっている?http://ameblo.jp/yuukata/entry-11398064065.html 亡ぼしたはづの「平家」の地に「源氏」の南朝てんびん座そして、滅ぼしたはづの「白旗」の地に「赤旗」?http://ameblo.jp/yuukata/entry-11398307786.html

気が?はてなマーク?しました。



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伊波城→山田城→座喜味城→中城城→勝連城は、隠れ「平家」の城で、山田城の部品を用いて座喜味城を築城しました。その労力は「平家」の地→奄美諸島と慶良間諸島の人々でありました。山田城の部品を用いたという事は山田城は無くなる。山田城→座喜味城→中城城の城主は護佐丸盛春で「盛」という文字も平家が良く使用します。

越来城は「源氏」でてんびん座伊波城⇔座喜味城⇔中城城⇔勝連城は隠れ「平家」の城だと思います。

慶良間諸島と座喜味城の東側→反対側⇔与勝半島にある勝連城という「城」 の城主は、阿麻和利(あまわり)といいました。海(あま)→阿、麻→阿佐という文字も平家が良く使用します。


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阿麻和利(あまわり)の前に「勝連城」に住んでいた人は、茂知付(もちづき)按司という人でありました。茂知付(もちづき)氏は望月氏だとおもう。望月氏は、忍者とか隠密(おんみつ)の町・甲賀から信州・信濃へと移り、真田氏の同族である滋野三家(海野氏・祢津氏・望月氏)の三氏に含まれていました。


沖縄島を車で「一周」するより船船で「一周」する方が早く⇔道路が整備されていない頃は⇔さらに舟が「一周」していました。隠れ「平家」かもしれない西側の慶良間諸島と東側の与勝半島、東西南北、山原船、阿佐船、馬→マーラン船という舟が行き来していました。その舟を主に修理していたのは、隠れ「平家」かもしれない与勝半島の人々でありました。


実際に、勝連半島には、平、盛、森、清という姓、地名、名が多く存在します。

伊波城→山田城→座喜味城→中城城に引越してきた護佐丸盛春の娘が越来王子=第一尚氏・尚泰久の妻で⇔尚泰久の娘が阿麻和利の妻⇔三角関係のような「政略結婚」であったようです。次第に若い阿麻和利は力を持つようになり、「護佐丸・阿麻和利の変」という爆弾「わな」のような潰し合いが発生しました。双方ともに、必要であり不要な存在でありました。おそらく「わな」を仕掛けた第一尚氏・6代目の尚泰久=越来王子は、失った「平家」関係者の祟りを恐れて、仏教に帰依します。



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中国島は「易姓革命」⇔日本島は「万世一系」の考えがあります。おそらく、沖縄島では「万世一系」の「易姓革命」が行われていました。

何故か?亡ぼしたはづ‥後ろの人々が「祭祀」を行なっている気がしました。しかし、「亡ぼした」という文字は「ひみつ」で天秤座ゆずったのです。易姓革命の万世一系‥


古来から『祭政一致』の琉球王様には、
1.天孫王統(神話時代)→2.舜天王統(3代)→3.英祖王統(5代)→4.察度王統(2代)→5.第一尚氏(7代)→6.第二尚氏(19代)続きました。「易姓革命」の「万世一系」になっています。
1.天孫~2.舜天に「代替」するころ、日本島では、平家が滅亡し天秤座源氏の鎌倉幕府が誕生しています。

2.舜天~3.英祖に「変換」するころ自転車日本島より沖縄島に「禅鑑」という僧侶が極楽寺を創建しにやってきました。

3.英祖~4.察度ころ、2度の元寇→文永の役→弘安の役、さらには、南北朝の動乱→倭寇盛ん→不安定な時代へと突入しています。

南北朝の動乱が静まると同時に天秤座5.第一尚氏が誕生しました。それ以前、平家が滅亡と同時にオバケ聞え大君=神女(ノロ)が誕生していました夜の街平家の後ろには流れ星陰陽道という「たま信仰」=月星信仰を持った人々がいました。

当時、日本島⇔沖縄島⇔中国島の関係は、前=政治は違うけど天秤座後ろ=祭祀は‥と?思いました。


1.天孫王統は、神話のお話で実在が不確かです。

2.舜天王統は、源氏・源為朝の遺児伝説があります⇔その説は本当ではないけど「うそ」でもありません平家に亡ぼされた源氏の落ち武者と後ろの人々オバケ祭祀を司る人々が来ていました。


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3.英祖王統は、実在しており資料も残っていました。再び源氏に亡ぼされた平家の落人と後ろの人々オバケ陰陽道の人々が来ていました。


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英祖王統の4代目は、玉城王といいてんびん座玉置氏と玉城氏は似ている気がしました。


玉置氏には、平資盛の子孫伝説があります。幼い頃の平資盛は、藤原氏の乗っていた牛車(ぎっしゃ)を引っくり返して、「平家にあらずんば、人にあらづ」というお話がありました。

3組目・英祖王統→4.察度王統→5.第一尚氏→6.第二尚氏に代替する。



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「易姓革命」により、最後の王様父子が悪く記されていました。英祖王統の4代目、玉城王・親子は悪く記されていますてんびん座しかし、「万系一世」により亡ぼされたはづ・・悪者が「祭祀」を行なっているオバケそして、後ろの人々は「百」という文字を良く使用している気がしました。



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日本書紀・崇神天皇の段には、三輪山麓の箸墓に倭とと日百襲姫命(やまととひももそひめのみこと)が登場します。とと日=早く飛ぶ鳥、ももそ=百衣を着た巫女は「鳥の羽をもった衣」を着た巫女の事だといいます。


記紀(古事記・日本書紀)の後ろにも「百八十部」の精神が組み込まれています。

何故か?後ろの人々は「百」という文字を良く使用している気がしました。

http://ameblo.jp/yuukata/entry-11529473796.html

前回の、肝付氏と望月氏との関係と似ていると思いました。


伝説も含めて、勝連城に住んでいた順序は、勝連接司→伊波接司→浜川接司→茂知付接司→阿麻和利接司になっています。

接司とは、大名のこと・・


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勝連城主は、肝高の阿麻和利と呼ばれていました。

茂知付氏と肝高の阿麻和利は夜の街月と鶴の紋タンチョウを用いる流れ星望月氏と肝付氏に似ている気がします。

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勝連城という「城」 の城主は、第一尚氏の前の察度王統と英祖王統の関係者が多く住んでいました。察度王統と英祖王統は、ほぼ同族でありました。察度の妃(つま)は勝連接司の姫で、英祖王統の2代目・大成王の5男が勝連接司で、勝連接司は英祖王統の3代目・英慈王の弟、4代目・玉城王は「いとこ」で、その頃から察度王統の樹立に向けて婚姻関係が築かれていた頃←第一尚氏に亡ぼされましたてんびん座ゆずりました・・


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中山国→英祖王統の拠点は、首里城(現・那覇市)の北西にあった、伊祖城と浦添城でありました。西の浦添城~東の首里城←中山国へと拠点を移します。


王府・王さま・内政は「首里」にある⇔官僚・政治・外交は「那覇」にありました。前は「政治」⇔後ろ「祭祀」の『祭政一致』の国でありました。


もしかすると?「源氏」の第一尚氏は「平家」の中山国=英祖王統と察度王統を亡ぼしててんびん座「平家」~「源氏」の中山国が三山を統一し、琉球王国が誕生した?かも・・

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↑右から左に←中←山←世土という額が正殿にあります。


中山王・尚氏は、浦添城から首里城へ拠点を移しています。


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首里城・正殿の正式名称は、百浦添御殿(ももうらそえうどぅん)といい天秤座「前と後ろ」の共有地になっています。

三山時代は、100年ほど続いた。英祖王統の玉城城は、三山分立の時代に改築城していた。しかし、第一尚氏・尚巴志による三山統一の過程で、亡ぼされた。 「玉城」按司は、南山系で、中山軍の南山城攻略のとき、按司も戦死して廃城となり、尚泰久王ころから、知念城・玉城城の御獄は、王家の東御廻りの参詣地となりました。


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正殿=百浦添御殿はてんびん座正面であり後ろオバケでありました。正殿の前=西では「政治」⇔後ろ=東では「祭祀」を行っていました。またさらに、王府・王さま・内政は「首里」にある⇔官僚・政治・外交は「那覇」にありました。


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中山国=首里城の前には、那覇の久米村と久米島⇔後ろには、東方(あがりかた)→神の島=久高島→遙か彼方=ニライカナイ→太陽→というふうになっています。


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太陽の東方(あがりかた)海は、首里城の後ろ→東側→知念半島の佐敷、知念、玉城では、斎場御嶽、東御廻りなど、祭祀を行う地が集中しています。


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東方の知念半島と勝連城のある勝連半島は海遠くて近い夜の街月日の関係でした流れ星


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東方→知念半島には「海野」という部落があります。伝説も含めて、勝連城に住んでいた順序は、勝連接司→伊波接司→浜川接司→茂知付接司→阿麻和利接司になっています。


茂知付接司は望月氏だとてんびん座「遠くて近い」知念半島と勝連半島の関係は、隠密の信濃巫女のようにも見えます。

http://ameblo.jp/yuukata/entry-11529473796.html


滋野氏一族は「月天七九曜」を幡紋とし、滋野氏から分かれた海野氏→望月氏→祢津氏が「滋野氏三家」と称され、三家の幡の紋は、海野氏が「六連銭」、望月氏が「月輪七曜」、祢津氏が「九曜」という「日月紋」か「月星紋」であったと伝えられている。紋は流れ星星=曜(ほし)と「月」で構成されたもので夜の街「望月」とは十五夜であり「満月」を意味した「月輪七曜」を使用していました。


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おそらく海沖縄島・東方の「海野」と勝連城の茂知付→望月氏は夜の街深く関係しています流れ星

最後の勝連城主・阿麻和利の妃は、百十踏揚(ももとふみあがり)という玉城出身の神女(ノロ)でした。百度踏揚は本名ではなく最高神女としての神名であり、心高(チムタカ)い→肝高(チムタカ)という意味がある。王族女性には国の「祭祀」を司るという使命もあり、玉城の祭祀にも参加していたと伝わっている。 百度踏揚は、第一尚氏6代目・尚泰久=越来王子の娘でした。


…―…―→


首里城の後ろ→久高島は神の島で⇔那覇の久米村の隣り→辻村には、辻・廿日正月祭り奉納芸能という「政祭一致」の神事・祭祀儀礼があり、その神職の「おや分」は、盛前(むいめー)といいました。

盛(むい)は、酒(さき)を示す古語で「泡盛」の語源は「粟(アワ)の酒」である。「お米信仰」以前、粟(アワ)で祭祀儀礼を行なっていました。古代より御神酒(おみき)は、神聖な祭祀儀礼に用いており、次第に粟→米→芋の酒盛りへと移ります→

盛前を慰撫(なだめる)ことで、国王が饗宴で神聖な酒を振舞ったという。

廿日(はつか)、盛(むい)、前(めー)という「文字と言葉」は、海人の『平家』と深く関係している⇔琉球王は、第一尚氏天秤座第二尚氏ともに、「源氏」系でありました。

あの時、
http://ameblo.jp/yuukata/entry-11305641347.html

第一尚氏の7代目「尚泰久」王は、「平家」かもしれない?護佐丸「盛」春と阿麻和利→泡「盛」?を「わな」のような仕組みで亡ぼしました。その後、尚泰久は「平家」関係者?の祟(タタ)りを崇(アガ)めるため、仏教に帰依します。


明治以降の「お社」は、英雄=「勝ち組」を祀り⇔江戸以前、怨霊=「負け組」の祟りを崇めていました。


その後、第一尚氏を亡ぼした第二尚氏は、同じく源氏系の第一尚氏とてんびん座平家?かもしれない「護佐丸と阿麻和利」の祟りを崇めるため、安里(あさと)に崇元寺を建てましたhttp://ameblo.jp/yuukata/entry-11317306927.html


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安里(あさと)にある崇元寺 (そうげんじ)


「安」も平家風で、安里家は護佐丸盛春の子孫です。

また、その辻村は遊郭地で「辻遊び」という夜の街妙見信仰流れ星に似た風習→信仰があり、風紀を乱すという事で度々禁じられました。現在、辻の遊郭地は「石けんランド」の町になっていますてんびん座その「辻遊び」は高級な信仰であったため⇔一般的ではありませんでした。高級な「辻遊び」を庶民的な毛遊び(もうあしび)として普及させていたのが、「かつれんぐすく」 の城主・阿麻和利で海知念半島と勝連半島は夜の街月日の関係でした流れ星


…―…―→


沖縄の稲作発祥地は、阿麻美久(アマミキョ)という人が遥か彼方(ニライカナイ)から稲の種子をもって沖縄島の南→知念半島・島尻郡玉城村百名の海岸に上陸したと伝わる。


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近くには、受水走水(うきんじゅはいんじゅ)という、日照りにも枯れない二つの泉がありました。最初に、玉城村百名の人々が、稲作りの教えをうけて、浜川浦原の親田で稲作が始まりました。

それから、東御廻(あがりうまい)という聖地巡礼のコースになっています。

男神・シネリキョと女神・アマミキョは、荒波に漂っていた島々を固定して、現在・沖縄島の形に配列しました。その神々の子孫に「アマミツ」がいました。アマミツは、ある日、中国・福建省にて、これまで見たことがない穀物を唐の人達から勧められました。 「こ!こんなモチッと食感、旨い物を今まで口にしたことがない!」天秤座「これは何か?」とたずねてみました⇔それは「ひみつ」だあせると言われて、アマミツは、しぶしぶ琉球に帰国しました。このことを沖縄本島中部の伊波城を根城にして、盛んに海外交易を行なう伊波按司に話しました。そこで、伊波按司が中国島に渡ったとき、米の「種子」を琉球に持ち帰りたいと中国島の人達に頼みました。それは「ひみつ」だあせると言われてしまいました。

後ほど、伊波按司は、米が稲という植物に実るものであることや、水をはった田で作ることも知りました。しかし、アマミツと同じように、見張りが厳しくて、稲を持ち出すことはできませんでした。そこでタンチョウ鶴の足に稲穂をつけて、この種を運ばせてやろうと決意しました。


沖縄島に戻るとタンチョウ飼い慣らした一羽の「鶴」を連れて、再度中国島に渡り、その鶴の足に密かに稲を結び付け鶴沖縄島へ向けて飛ばしました。



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琉球の王様→第一尚氏は、肥後国出身の倭寇でありました。

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熊本・肥後「佐敷」の?倭寇・名和氏は、沖縄・伊平屋島を拠点とし、後に琉球の王=第一尚氏に・・


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伊平屋島には、阿波岳、アサ岳、田名があります。

阿波国と肥後国は細川氏で通じていました。


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名和氏=尚思紹は、伊平屋島から自転車沖縄本島の北から南の「佐敷」へと拠点を移し、その2番目の子=尚巴志が琉球を統一しました。なぜか?佐敷の近くには「長野原」がありました。
肥後国と信濃国は深く通じていました→

…―…―→

東御廻=聖地巡礼のコースに佐敷グスクが含まれています。第一尚氏・尚思紹、尚巴志父子の居城であったが、尚巴志が中山城を攻め滅ぼして移った際、城郭の石は全部首里に運んだと伝わる。尚巴志の500年祭を機会に建てられた「月しろの宮」が残る。別名「上グスク」とも呼ばれている。

夜の街月しろの宮流れ星という文字も
気になります。



「王様が倭寇」という説は「神様は鬼だ」というに等しい・・


しかしそれこそ、

忘れられた夜の街たま信仰流れ星蔭を亡ぼすと⇔光は消えててんびん座光を選ぶと蔭もついて来ます→



玉手箱を開けた時、



あなたもわたしも・・










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