第2回 どこでもドア
「小た急」は、西が前(1番)
⇔東が後ろ(2番)になっています。
「ドラえもん」の町があります。
前には「白山」という地名があります。その名称は、「白山信仰」と関係あるかは?わかりませんが⇔近くには、王禅寺、柿生、琴平社に「弘法の松」という信号機も気になります。
やはり、あの時の
http://ameblo.jp/yuukata/entry-11520625454.html
忘れられたたま信仰と隠密<おんみつ>伝説とも関係している気がしました。
白山信仰の「菊理姫」は出雲の神使い「白蛇」を意味しています。
88歳は八+八=「米寿」→100歳は「百寿」→99歳は「白寿」というお祝い事があります。
白=99は九九里→くくり→菊理⇔姫(ヒミ)は蛇(ヘミ)であるから菊理姫は『白蛇』になります。
「小た急」の前に進むと、昔の「大山」さんに到着します。
おそらく、関係ないとおもうけど、
その日は、寒くて暑い「不思議な体験」をしました疲労感は消えて現れました→
「大山」の開山者は、良弁(ろうべん)という「大仏建立」の別当と同じ人でありました。
大山の麓(ふもと)→「良弁滝」の麓には「愛宕滝」がありました。
―…―…→→
千葉県野田市の愛宕(あたご)社は、「カゴメ歌」の発祥地になっています。
籠目→カゴメ、籠(カゴ)の中の「鳥」、後ろの正面は‥と歌っていました。その作者は不明だが、一説には、弘法大師・空海だと言われています。
籠目カゴメには竹と龍鳥が隠れていました。
「白山信仰」という山岳信仰=修験道には、龍信仰愛宕信仰白鳥信仰寒神信仰天狗信仰など、さまざま含まれていたと思います。
その龍脈を辿ると、秦氏→鴨=賀茂氏→物部氏→忌部氏が登場します。
戦国武将・直江兼続の「愛」という鎧兜(よろいかぶと)は、愛宕信仰から‥という人もいます。実際に直江兼続が師匠とする上杉謙信は、愛宕社を建立しています。
京都「愛宕社」の古名は、「阿多古」社になっていました。
愛宕権現は火の神様→
天狗の姿をした愛宕権現太郎坊を祭神とし、天狗信仰が生まれる。
↑機織(はたおり)機に使用する「筬おさ)」
阿多の地には、竹細工職人が多くいました。
阿多(あた)という文字は昔の「ドラえもん」に不随する「スネ夫」の声「肝付氏」とも関係している気がしました。
阿多は、吾田、安太と記される場合もあります。
メソポタミアでは「人が死ぬと鳥になって空へ飛んでいく」という白鳥伝説があり、それを基に、古代中国では鳥霊信仰が発達し、稲作文化と同時に日本へ伝わり、元々あった縄文信仰と不随して日本全土に広まったといいます。
籠に死体を収め、高い山に…
――…→→
距離、時代は離れているけど‥
どこでも「ドア」がありました
↓ ↓ ↓
─━─━─扉─━─━─
―…―…→
むかし、吾平駅(鹿児島県肝属郡吾平町)があったという。
大隅国の肝属郡と姶羅郡「あいら」は、古くは「あひら」と読んだという。
記紀の神話伝承には、神武天皇は、日向国の吾田村の吾平津媛(あひらつひめ)と結婚した。
神武天皇の后は吾平津姫
「阿多」=「吾田」の子孫が「吾平」かも‥
―…―…→
阿多津姫は、 阿多隼人の女性で、 大山祇神の娘→名は神阿多都比賣(かむあたつひめ)、亦の名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂ふ。』とまをしき」と記される。
↑「阿多」と「佐久」という文字は気になります。
【日本書記名】木花開耶姫(このはなのさくやひめ)は、大山祇神の娘。姉は磐長姫。瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃。
【古事記名】木花之佐久夜毘売
後世、富士山の神(浅間大神)→浅間信仰とも通づる→
別名は、神阿多津姫命・神吾田津姫命・小酒解神など‥
酒解神→神話の伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の子→大山祗神→その娘→木花咲耶姫命(別名=阿多都比売)は、阿多→吾田、安太とも通づる→
木花咲耶姫命は、父神・大山祗神と共に酒造の神としても信仰されている。
伊邪那美(イザナミ)は、産屋に火を放って、その中で三柱の子を産んだ。
最初の子→火照命(ほでり)=海幸彦→2ばん→火闌降命(ほすせり)→3ばん→火遠理命(ほおり)=山幸彦→ホオリの孫が初代天皇・神武天皇はその孫だという。
木花咲耶姫の父神が→酒造の祖(おや)神社→大山祗神社で子孫には→大山阿夫利神社、梅宮神社、三嶋大社、三島神社などと通づる→
―…―…→
「阿多」=「吾田」の子孫が「吾平」かも‥
それと↑「阿多」と「佐久」という文字は気になります。
あの時の、
http://ameblo.jp/yuukata/entry-11381540121.html
7世紀ころ、
美濃、甲斐、信州地方に「牧」が急激に現れる。8世紀半ば、東国から九州に「駒人」のような『防人』が多く派遣されていました。
時代はかなりづれるけど、
阿波国と安房国は忌部氏⇔阿波国と肥後国は細川氏⇔肥後国と紀伊半島は紀氏⇔紀伊半島と阿波国は久米氏で通づる→
甲賀望月氏は信濃望月氏に→牧→柵→佐久→「酒」の町に‥
―…―…→→
はなしは飛んでいますが、
昔むかし、「信濃巫女」という「歩き巫女」がいました。
歩き巫女は、かつて日本に多く存在した巫女(みこ)のことで、特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うことによって生計を立てていた。旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在したという。
歩き巫女は、「くノ一」と呼ばれ、く+ノ+一=「女」の忍者→諜報員、隠密(スパイ)みたいな巫女でした。
現在の長野県東御市から出て、日本ほぼ各地を歩いた歩き巫女。戦国時代、望月千代女が武田氏の為に、この巫女を訓練し、いわゆる「くノ一」として使ったとされる。
柳田國男氏によれば、ノノウと呼ばれる諏訪神社の巫女で、諏訪信仰の伝道師として各地を歩いていたといいます。滋野氏から分かれた海野氏→望月氏→祢津氏が「滋野氏三家」と称され、三家の幡の紋は、海野氏が「六連銭」、望月氏が「月輪七曜」、祢津氏が「九曜」という「日月紋」か「月星紋」であったと伝えられている。
滋野氏一族は「月天七九曜」を幡紋とし、滋野氏から受け継いだとされる海野氏の「月輪七九曜」紋は星=曜(ほし)と「月」で構成されたもので海野一族である望月氏の根拠地の中心地は望月であり、「望月」とは十五夜であり「満月」を意味した「月輪七曜」を使用していました。
望月信雅の出家後の名称が「印月斎一峰」でありました。
月→玉兎←ウサギ
望月印月斎 ??
―…―…→→
もっと昔、南九州は「蘇の国」と房総半島「総の国」は「麻の国」でありました。
南九州は昔、桓武平氏・千葉氏の所領でありました。鎌倉幕府は、守護や地頭などの制度を敷き、地方を統治することにします。そして南九州は、島津氏や渋谷氏などが統治を任されました。それ以前は、平家・千葉氏の領地となっていました。
沖縄島の最北端にある、安田(あだ・あた)、安波(あは)、伊地、伊部(いぶ)、美作(ちゅさく)、楚洲(そす)という地名が気になりました。
中国島・楚の国→九州島・蘇の国→房総半島・総の国は、「麻と粟」の国でありました。
安田は「阿多と阿陀」安波は「阿波と安房」、伊部と美作は「吉備国の忌部氏」に似ています。
…―…―→
忌部氏は蘇我氏とともに発展した「祭祀儀礼」など‥司る一族でありました。
忌部氏に関わる→岡山県の備前焼=伊部(いんべ)焼の「伊部」という文字もまた似ています「吉備国」は備前国、備中国、備後国、「美作国」に分別しました。忌部氏は、麻の生産のみならづ、岡山県備前市伊部(いんべ)の備前焼(伊部焼)も阿波忌部氏が関与しているとされる。出雲のたたら製鉄の技術も阿波忌部の影響があるという。
…―…―→
谷川氏によると、鵜(う)の方言名→「あたっく」から安田(あた・あだ)という地名になったといいます。亀島氏は、安田は阿多→阿陀→吾田、安太とも関係しているはづ・・だと言いました。
沖縄島では家鴨(アヒル)のこと「アヒラー」と言うのだが吾平の肝付氏と似ている気がしました。
中国島・楚の国あたり、台湾島では、中元節には月餅とアヒルを用いています。
「中秋節」にもアヒルの塩づけ玉子の黄身を満月に見立てた月餅を用いる。
おそらく月ではウサギが「餅つき」をしている。
吾平は肝属郡肝付
鎌倉時代に源氏・島津忠久がやってきました。それ以前は平家・千葉氏の所領でした。もっと昔、平安時代ころ、肝付氏=肝属氏がやってきました。
肝属氏の「紋」は、鶴(つる)でありました。
近くには鴨、賀茂、鵜?吾平→アヒル?がいたかも・・
月→玉兎←ウサギ ??
「望月氏」も十五夜であり「満月」を意味した「月輪七曜」を使用していました。
肝属(きもつき)と望月(もちづき)は餅つきに似ている・・
望月氏が住んだ信濃国は「山」であるけど⇔「海」の地名がたくさん登場します。そして、伴野、阿南という地名があります。阿南は忌部氏の「阿波国」にもありました。伴野の「伴」は「大伴氏」の伴造部(ともつくりべ)とも関係しています。
肝付氏の本姓は伴氏→大伴氏
大伴氏の「伴造部」には、久米部=南の防人と佐伯部=北の防人がありました。
中臣氏以前は→蘇我氏→物部氏→大伴氏→誰かが?http://ameblo.jp/yuukata/entry-11421461321.html いました。
忌部氏は蘇我氏とともに発展した「祭祀儀礼」など‥司る一族でありました。
おそらく肝付氏と望月氏の祖先はたま信仰を持っていたはづ・・
けっして見てはならない・・
不審に思った男は、つい部屋の中を覗いたすると、一羽の鶴が機(はた)を織っていました姿を見られた鶴は悔い恥じ空高く飛び去っていった。
鶴は「白鳥」を意味するそして、白鳥は「白餅」を意味する。
その昔、秦氏(はたし)が餅(もち)を用いて弓の的(まと)にしたら餅(もち)は白鳥と化して山へと飛んで行った。
竹取物語の主人公かぐや姫は籠(かご)の中で育てられた月の都に帰る場面である迎えの者が「天の羽衣」を着せようとすると⇔「天の羽衣を着ると、人ではなくなってしまう」と言い、羽衣を着て、この世の記憶がなくなる前に、どうしてもこれだけは言い残しておかねばならぬ、といい、
「いまはとて天の羽衣きるをりぞ君あはれと思ひ出でぬる」と紙にしたため、「不老不死の薬」を帝に残していってしまうのである。
不老不死の薬・・
それというのは、
忘れられたたま信仰
蔭を亡ぼすと光は消えて光を選ぶと蔭もついてくる答えを知った時わたしたちは、私達へと終わりはじまる→
みてはならない
いうたであらう・・
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