追悼 <四代>大潮憲司 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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訃報が相次ぐ中で大相撲からも残念な訃報が届いてしまいました…。

 

大相撲元小結<四代>大潮の波多野兼二さんが亡くなられました。5月下旬に体調が悪化し、同月25日に亡くなられたとの事です…。

 

40歳まで土俵に上がった鉄人力士であった。北九州市の出身で中学時代はバスケットボールをやっていたのだが駆り出された村相撲で優勝した事から当時の粂川親方(元幕内 双ツ龍)から勧誘を受けたものの当初は拒絶していたが話がまとまり時津風部屋に入門し、中学2年の昭和37年1月場所に初土俵を踏んだ(当時は中学生以下でも大相撲に入る事が出来た)。

その後気が優しい性格もあって出世はそんなに早くない方であったが、昭和44年に入り同郷で親方最晩年は時津風部屋付き親方でもあった戦前の元関脇大潮清治郎(元陸奥親方・この当時は既に定年退職)に頼んで同年5月場所より大潮を襲名(なお大正時代の大潮又吉以降同じ四股名の関取としては4人目なのでここでは「関取としての四代目」とさせていただく)、そして同年11月場所に十両昇進を果たし、昭和46年9月場所に幕内に昇進した。

 

立ち合い激しく当たるか突いて出て左を差すか右上手を取って一気に出る取り口だが、腰高のためいなされたり土俵際でかわされて逆転されるケースも多く、それが災いしてか入幕以降しばらくは幕内と十両の往復が続く有様であった。そんな中で上京後の中学の同級生で同じマンションの住人でもあった旭国から「土俵際では腰を落として足を半歩前に出す」事をアドバイスされ、それが功を奏してか10回目の入幕となった昭和51年3月場所以降は幕内に定着、翌年の昭和52年11月場所では旭国・<初代>貴乃花・若三杉(後の<二代>若乃花)の3大関を破って初の三賞である技能賞を受賞、翌昭和53年1月場所に小結に昇進、更に翌々場所の昭和53年5月場所には横綱輪島を破って初金星を獲得、大体この時期が「第一期黄金時代」と言えた。

 

しかし一旦十両に落ちて再入幕した昭和54年3月場所に右足親指を負傷して休場となるも何故か公傷と認められず、翌々場所の昭和54年7月場所には幕下まで落ちてしまったが翌々場所の昭和54年11月場所に十両に復帰、翌々年の昭和56年1月場所に幕内に復帰以降は再び幕内に定着し、翌年の昭和57年9月場所には34歳で横綱北の湖を破り、翌昭和57年11月場所には大関獲りの場所となった若島津(後の若嶋津)を破り10勝を挙げて敢闘賞を受賞、翌昭和58年1月場所には35歳で横綱北の湖を破り、大体この時期が「第二期黄金時代」と言えた。

 

その後昭和59年5月場所が最後の幕内となり、その後は十両暮らしとなって昭和62年5月場所には幕下まで落ちたが翌7月場所に十両に復帰、翌9月場所初日に勝って通算952勝目を挙げそれまで1位の北の湖を抜いて当時の最高記録となった。翌々場所の昭和63年1月場所には再び幕下に落ちたが40歳を迎え久し振りの40代力士として話題になるも負け越してその場所限りで現役を引退した。通算勝ち星964勝こそ現在4位であるが(但し最高位関脇以下では最高記録)、通算出場1891回・幕内昇進13回・十両在位55場所は現在でも最高記録である。

 

もちろん私にとってはリアルタイムで存分に見てた力士であった。とは言うものの、前述の「第一期黄金時代」はまだ私が幼過ぎる頃だったのでさすがに見ていない、むしろ「第二期黄金時代」の方はしっかり見ていた。その頃が大相撲を一番必ず見ていた時期で、前述の北の湖を2回破ったところや若島津を破って敢闘賞を受賞したところは見てました。

また十両に落ちて以降は時が経っていくうちに「40歳力士」への期待が高まっていき(これより少し前に高見山が惜しくも40歳目前に引退してしまった事もあって)、前述の昭和63年1月場所に40歳を迎えた時は嬉しかったのだがその場所は幕下で結局は「40歳の関取」とならずに引退したのが大いに惜しかった感があった。

 

引退後は年寄式守秀五郎(略して式秀親方)となり平成4年3月に独立して式秀部屋を創設し平成24年3月場所に弟子の千昇が十両に昇進したが、これが自ら育てた唯一の関取となり、翌年の平成25年1月に一門外ではあるが当時の小野川親方(元幕内 北桜)に名跡と部屋を譲り定年退職。その後は八王子で余生を送っていたそうです。

 

しかしこれで私にとっての大相撲青春時代の力士がまた1人いなくなってしまいました…、本当に残念な事であります…。

 

 

 合掌