追悼 今くるよ師匠 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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とにかく私自身の趣味・思うことなど書き込んでいきます。

この前のキダ・タローさんの訃報記事に書いたようにここ最近関西の顔とも言える方の訃報が相次いでいる感がありましたが、この方も間違い無く関西の顔でありました…。

 

かつての漫才コンビ「今いくよ・くるよ」の今くるよ師匠が亡くなられました。相方の今いくよ師匠の命日(5月28日)の前日に当たる5月27日に亡くなられたとの事です…。

 

漫才ブーム以降の関西女性漫才を代表する存在であった。明徳商業高校(現在の京都明徳高校)時代に同じソフトボール部員の今いくよ師匠と出会い、卒業後会社員となるも退職し昭和45年に2人で今喜多代師匠に弟子入りし、同年師匠に付いた際の巡業先で穴埋め出演したのが初舞台で当初は本名の「スエ子・正子」のコンビ名だったが昭和48年に「今いくよ・くるよ」と改名するも長く下積み生活が続いた。

そして漫才ブームが始まった昭和55年にラストチャンスのつもりで『花王名人劇場』に出演し、「受けなかったら放送されない」という厳しい状況下の中でくるよ師匠がふくよかな御腹をパーン!と叩いたところが大受けし漫才が無事に放送される事になり(その時同じ舞台に立った横山やすし師匠から「お前らが1着や!」と言われたくらいであった)、放送翌日より出演依頼が殺到し一夜で人気漫才コンビとなり春やすこ・けいこさんと共に漫才ブームを代表する女性コンビとしてブームの中で大いに活躍した。

 

長い下積みの中で練り上げられた話術を基本として細身のいくよ師匠とふくよかなくるよ師匠が御互いの容姿をイジり合い(但しネタの中で他の芸人をイジる事は無かった)、当初は地味だった衣装が特注の派手な衣装を着るようになりインパクトを強めた事もあってか漫才ブームが収束して以降も活躍を続け、昭和59年には上方漫才大賞・昭和61年には上方お笑い大賞を受賞し上方女性漫才コンビのトップとして君臨し、その後に登場する後進の女性漫才コンビの憧れ・目標とされた。また後輩に対する面倒見の良さから女性のみならず男性芸人からも慕われる存在となった。

また私の記憶が確かならば、平成になって相当経った頃より疑問・驚き・喜びといった様々な状況に「どやさ」のギャグを使うようになり、正にこの師匠の後年の代名詞となった。

 

漫才ブームの頃は私が保育園から小学生になるあたりだったのでいくよくるよの漫才は必ず目にしていたものでした。もちろんその後も演芸番組ではよく見ていたし、大阪旅行の際にはNGK(なんばグランド花月)で何回か生の高座を見ていました。生の高座で印象に残っていたのはくるよ師匠は御馴染みの派手な衣装で登場はしたものの毎回必ず漫才の途中になると衣装がズリ落ちるようになってしまい漫才をしながら衣装を手で上に上げてる姿が必ず目に付いてしまい、笑いながらも内心「大丈夫かな?」といった感じで見ていた事を思い出します。

 

しかし平成27年にいくよ師匠が亡くなり、その後はピンでの活動となりいくよくるよのモノマネをしていた中川家と3人で組んで登場したりコンビ時代からのラジオ番組のパーソナリティーを継続したりしていた。私もくるよ師匠のピンでの姿は何回かテレビで見ましたが、「居てくれるだけで有難い」と感じる一方で何か寂しい感じもした感がありました。

その後一昨年4月にNGKで行われた吉本興業創業110周年特別公演「伝説の一日」で車椅子に乗って出演したのが最後の舞台となり、ラジオ番組の方も同年6月を最後に休演となり番組そのものも昨年3月で終了となった。

 

40年以上前とはいえ私としては漫才ブームは「つい最近」の感覚であった。それ故にその頃に方が次々といなくなってしまうのは本当に寂しい…、しかもコンビ2人ともいなくなってしまったからね…。

しかし言い換えればあの世で再びコンビが組める事になるので、もし私があの世へ行った際にはあの世の演芸場でいくよくるよの漫才を堪能したいと思います…。

 

くるよ師匠、長い間本当に御疲れ様でした。

 

 合掌