追悼 曙太郎 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

郵便局員のごった煮よもやまブログ

とにかく私自身の趣味・思うことなど書き込んでいきます。

体調の悪さは知っていたとはいえ年齢が年齢だし自分的にはつい最近の人だから正直ショックである…。

 

大相撲元横綱の曙太郎さんが亡くなられました。心不全のため54歳の若さで亡くなられたとの事です…。

 

若貴兄弟と共に平成一桁の大相撲黄金時代を盛り上げた立役者の一人であった。言うまでも無くハワイオアフ島の出身で、パシフィック大学中退後に当時の東関親方(元関脇 高見山)が弟をスカウトしたのだが気の進まない弟の身代わりとして入門する羽目となり来日して昭和63年3月場所に初土俵を踏んだ。

身代わり入門とはいえ2メートルの身長という大柄な体格から同じ場所に初土俵の<三代>若乃花(当時 若花田)・<二代>貴乃花(当時 貴花田)に負けず劣らず将来を期待され、長身の体格を生かし長いリーチを使った突き押し相撲で優勝こそ無かったものの(これは意外だった)期待通りの出世となり初土俵からわずか2年の平成2年3月場所に十両に昇進、更に半年後の平成2年9月場所に幕内に昇進した。

 

入幕後は順調に番付を上げ、関脇の地位にあった平成4年5月場所に初の幕内優勝を果たし、そのまま翌7月場所に大関に昇進。新大関の場所は骨折による全休という不運があったもののすぐに立ち直り、翌々場所の平成4年11月場所に2回目の幕内優勝・更に翌場所の平成5年1月場所に3回目の幕内優勝と連続優勝を果たし、大関在位わずか4場所で通過し平成5年3月場所に外国人力士初の横綱に昇進した。

その後後に続く形で横綱に昇進した若貴兄弟と共にこの時期の大相撲を大いに盛り上げ、若貴兄弟のライバルという関係上からヒール扱いされる事もあったが「日本人以上に日本人らしい」と評された実直な姿と優しい人柄は大いに愛された。その一方でライバル若貴兄弟には大いなる闘志を燃やし幾多の名勝負を生んだが、特に<二代>貴乃花とは「曙貴時代」と呼ばれ一時代を築き上げた。。

 

横綱昇進後は当初は横綱3場所目の平成5年7月場所から9月場所・11月場所と3連覇を達成し順調だったのだが、翌年の平成6年5月場所前の巡業中に左膝・その5月場所中に右膝と両膝を痛めてしまい途中休場、そのまま手術をしたもののこれが尾を引いてか優勝間隔が空くようになり、特に9回目の優勝を達成した平成9年5月場所以降は3年以上優勝の無い状態が続き、ある意味万事休すと思われたが平成12年7月場所に3年振りの10回目の優勝を達成、更に翌々場所の平成12年11月場所も11回目の優勝を果たし、この年の年間最多勝も獲得し復活と思われたが、既に両膝は限界の状態で翌平成13年1月場所を全休しそのまま現役を引退した。

 

現役引退後は諸事情で年寄株を手に入れられなかったが元横綱の特権で四股名のまま曙親方となって東関部屋付きの親方として後進の指導に当たっていたが、平成15年11月場所前に突如退職(廃業)し翌日格闘技のKー1に参戦を表明し格闘家として活動するも平成17年にプロレスに参戦して以降はプロレスラーとしての活動に軸足を置いていた。

 

実はこんな事を言うのも何だが、平成以降の大相撲は御恥ずかしながら昭和ほどよくは見てはいなかったが当然この方はよく存じてるのだが、確かにあの突き押し相撲は凄みがあったのだがテレビで見てもその実直な人柄を感じていたので私自身としてはこの方をヒールとは全く思っていなかったのが正直な気持ちです。

ただ力士としての現役引退後の格闘家・プロレスラーへの転向して以降はバラエティー番組では見る事はあったが、正直申さば格闘技・プロレスの試合に関しては意識的に避けていたのでそっちに関しての印象が無かったのが実情です。出来れば格闘技なんかに行かずに親方業を続けて欲しかったんだよな(そうすれば東関部屋も消滅する事が無かったし…)、若貴兄弟も相撲協会を去ってる現状を思うとなおさらそう思う…。

 

その後平成29年に倒れ37分間の心停止という危険な状態となったが何とか蘇生したものの重度の記憶障害が残り、自らの子供の事でもハッキリしない状況であったが、<三代>若乃花が御見舞いに訪れた際には終始笑顔で語っていて大相撲時代の記憶はしっかり残っていたそうです。ただその後も療養・リハビリの状態が続き、最高で200kg以上あった体重も大分落ちてしまったくらいであった…。

 

私にとっても年は近いし自分としてはつい最近の力士(と言っても引退したのは20年以上前だが…)の感覚だっただけに、こんなに早くいなくなってしまうとは…本当に残念な事であります…。

 

 

 合掌