追悼 鈴木健二さん | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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年齢的に大往生とはいえ、また残念な訃報が届きました…。

 

元NHKアナウンサーの鈴木健二さんが亡くなられました。老衰のために95歳で亡くなられたとの事です…。

 

一時期は一アナウンサーの範疇を越えて時代の寵児として活躍された方でした。東京都墨田区出身の生粋の江戸っ子で(アナウンサーとしての語り口から信じられないが、普段の喋りは江戸っ子特有のべらんめえ口調だったそうです。)、旧制東北大学卒業後友達の誘いでNHK採用試験に受験して合格、「(当時の)志望者が一番少ない職種」という理由でアナウンサーを希望し昭和27年にNHKに入局し当初は熊本放送局に配属となった。

 

当初は前述の普段のべらんめえ口調から「ラジオに不向きなのでは」と悩んだが、入局翌年の昭和28年のテレビ放送開始もあってそちらに活路を見出す決意をし、その後は東京を含む地方局を転々とした末昭和35年に東京アナウンス室に復帰以降は当初は主に報道番組で活躍、特に『きょうのニュース』ではキャスターとして自らの顔出しや原稿だけでなく自らの言葉で語る後のニュースショーの原型を作り上げ、また昭和44年のアポロ11号月面着陸の特番の司会を務めるなど中継番組でも大いに活躍した。

 

その後昭和41年に主婦向け情報番組『こんにちは奥さん』の司会に抜擢され大いに活躍、その後は教養・バラエティー方面に軸足を移し、昭和53年放送開始の『歴史への招待』の司会を務めてヒットさせ、更に昭和56年放送開始の『クイズ面白ゼミナール』では「主任教授」(司会)として博識の高い語り口で親しまれ番組も視聴率40%以上を越える大ヒット番組となった。

台本の台詞を丸暗記して台本をスタジオに持ち込まず、尚且つ自らの手で調べ上げて推敲した上で自らの言葉としてアドリブを含めて語る姿勢から「最後の職人アナウンサー」と呼ばれた。

 

前述の『クイズ面白ゼミナール』の大ヒットに加えて昭和57年に発売された著書『気くばりのすすめ』は単行本300万部を超えるベストセラーとなり、この時期には一アナウンサーを越えた時代の寵児となり、その勢いから昭和58年の『NHK紅白歌合戦』の白組司会に抜擢され昭和60年まで3年連続務め上げ、他の番組同様台本無しで進行をこなすプロ振りに加え歌手ごとに衣装を変える従来の白組司会に無いスタイルで視聴者の度肝を抜いた。また昭和59年の『紅白歌合戦』では当時引退を表明しラストステージとなった(後に復帰)都はるみさんが「夫婦坂」を歌い終えた後にはるみさんに対しアンコールの希望を伝える際に観客に発した「私に一分間の時間を下さい!」は当時の流行語となった。

 

昭和59年に理事待遇となった事により当時NHKは57歳の定年が2年延長される事になり昭和63年1月の59歳の誕生日で定年退職となり、それにより『クイズ面白ゼミナール』も同年4月3日を以って放送終了となった。

その後は執筆・講演活動に重きを置き、その一方で昭和63年~平成10年には熊本県立劇場館長・平成10~16年には青森県立図書館長を務めた。それもあってかテレビ出演に関しては平成元年の『鈴木健二の人間テレビ』が通常レギュラーの最後となり、その後は平成25・26年に『クイズ面白ゼミナール』の復活特番として放送された『クイズ面白ゼミナールR』の「名誉教授」として登場するなど散発的な出演となった。

 

『クイズ面白ゼミナール』は私が小学生になってから日曜の夜に移動したので(当初は木曜日の夜)日曜の夜の御楽しみとしてよく見ていました。だから当時子供だったからクイズの問題はよく覚えて無くても番組の雰囲気とかは何となく覚えていました。

あと『紅白歌合戦』で思い出すのは昭和60年にC-C-Bの曲紹介の時にC-C-Bのメンバーの格好をして登場した時には完全に度肝を抜いてしまった(それを見たメンバーが「(自分は)今日は地味です。」と言ったのにも笑ってしまった)。

とにかくあの頃はこの方をよく見てはいたのだが、定年退職以降は前述の『クイズ面白ゼミナールR』や平成5年の『思い出のメロディー』の司会など本当に数えるくらいしか見なかったのが正直残念な感じがしました。

 

晩年は横浜に住んだ後にNHK初任地であった熊本に移り住み、福岡の病院で亡くなられたとの事です…。

 

亡くなられたのは残念とはいえ95歳は間違い無しの大往生、長い間本当に御疲れ様でした。

 

 

 合掌