追悼 明武谷清 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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また大相撲で残念な訃報が届きました…。

 

大相撲元関脇明武谷の明歩谷清さんが亡くなられました。老衰のために86歳で亡くなられたとの事です…。

 

1960年代の柏鵬時代を飾った力士であった。北海道阿寒町(現在の釧路市)の開拓農家の息子として生まれるが家業を手伝うのを嫌い、小学6年時分で既に176cmの高身長もあって次第に力士を志すようになり、昭和28年に<初代>羽黒山・吉葉山一行が地元に巡業へ来たのをきっかけに入門を決意、吉葉山所属の高島部屋に入門し昭和29年3月場所に本名の明歩谷で初土俵を踏んだ。

その後しばらくして吉葉山が現役中に設立した吉葉山道場(後の宮城野部屋)に移籍、その後は順調に出世し初土俵から4年も経たない昭和32年11月場所に十両に昇進、昭和34年7月場所に新入幕を果たすもしばらくは幕内と十両の往復となり、3度目の入幕となった昭和35年11月場所に勝ち越して以降は幕内に定着し、昭和36年5月場所に四股名を明武谷に改名した。

 

そして昭和36年9月場所に12勝3敗の好成績を挙げ優勝決定戦に進出し敗れたものの敢闘賞を受賞し翌11月場所に小結に昇進、以降は概ね幕内上位で取るようになった(なお昭和38年1月~7月場所は吉葉洋の四股名で取っていた)。

そして大鵬には昭和39年5・7月場所と昭和39年11月・40年1月場所の2度の2連勝を含めて通算5勝を挙げ、その間の昭和39年11月場所に関脇に昇進、そして翌昭和40年9月場所は12勝3敗の好成績で2回目の優勝決定戦に進出(この場所も敗れて優勝は成らなかったが敢闘賞を受賞)、以上の事から昭和39・40年が全盛期で大関昇進を期待する声もあったが残念ながら大関は成らなかった。

 

身長189cm・体重113kg筋骨隆々とした長身の身体を生かし立ち合い突っ張ってからの左四つ・右上手を引いての吊りは<二代>起重機(初代は昭和戦前の肥州山)と呼ばれ上位陣の脅威の的となり、1960年代の柏鵬時代の名脇役として大いに活躍した。

そして前述の筋骨隆々とした身体に加えて彫りの深いイケメンのマスクで外国人女性からの人気が高く、特に当時の在日米軍将校夫人たちのほとんどが明武谷ファンで、米軍基地内でパーティーがある時は宮城野部屋に車を回して拉致するように連れて招待したくらいであった。

 

その後も活躍を続け、昭和43年1月場所には初土俵から1000回連続出場を達成した事により相撲協会から特別表彰を受けたが翌年の昭和44年11月場所に現役を引退した。引退後は中村親方となり宮城野部屋付きの親方として後進の指導に当たった一方で審判委員を務めたのだが、某宗教に入信した事で相撲と合わなくなってしまい残念ながら昭和52年1月場所限りで廃業して相撲界を去ってしまった…。

 

この方の活躍は私が生まれる前だったので当然リアルタイムでは見て無いし、私がヨチヨチ歩きの頃に相撲界を去って公の場に姿を現さなかった事もあってこの方そのものをリアルタイムで見た事が無いのが現状で、だいたい私が思春期の頃まではこの方の事は資料で知るしかなかった。

しかしNHKからビデオ『昭和の名力士』が発売されてこの方の相撲を見る事が出来たのが有難かった。只でさえ今は筋骨隆々とした身体の力士が幕内にいないと共に吊りを得意とする力士も幕内にいないという現状を思うと今の大相撲に無い貴重な素晴らしい場面である。またYouTubeの日本相撲協会公式チャンネルでも「アーカイブ場所出張版」としてこの方の特集がありますのでリアルタイムで見て無い方も是非この方の相撲を見ていただければと思います。

 

相撲協会を去った後は会社員となって一方で布教に努めた後ビル清掃会社を共同経営していたそうです。

 

86歳は力士としては相当な長寿であったとはいえ古き良き力士がいなくなってしまいました…、残念な事であります…。

 

 

 合掌