追悼 中村メイコ先生 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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とにかく私自身の趣味・思うことなど書き込んでいきます。

あの大震災の後にあまりにも残念な訃報が届きました…、自分的には正に「芸能界の巨星墜つ」と言える訃報でした…。

 

中村メイコ先生が昨年の大晦日に亡くなられました。最後の仕事からわずか6日後に亡くなられたそうです…。

 

昭和戦前から活躍された「芸能界の生き字引き」「芸能界の超大御所」でした。昭和9年東京都杉並区生まれ(「昭和九年会」唯一の女性会員であった)で昭和12年にわずか2歳で映画『江戸っ子健ちゃん』(主演 榎本健一)のフクちゃん役でデビュー、昭和15年にはラジオドラマ『ほがらか日記』で人気を得て戦前・戦中は天才子役として映画・ラジオ出演で活躍、また同じ昭和15年には(本放送開始より大分前だが)テレビの実験放送に出演、正に本当の意味での日本のテレビ放送の歴史の生き字引き的な存在でもあった。

 

戦後に入るとラジオドラマ『ジロリンタン物語』『お姉さんといっしょ』などで一人で複数の役の声を使い分けて演じ切り「七色の声と讃えられ、映画の方も引き続き喜劇映画を中心に多くの映画に出演、その経緯から自らの肩書を「喜劇女優」と語っていた。しかし昭和28年にテレビの本放送が開始されると早くに出演するようになり、ドラマのみならず洋画・アニメの吹き替えや第10~12回『NHK紅白歌合戦』(昭和34~36年)などの番組の司会やクイズ番組『連想ゲーム』女性軍初代キャプテン(昭和43~44年)・バラエティー番組『お笑いオンステージ』レギュラー出演など多彩にこなし、また歌手としても昭和30年に「田舎のバス」をヒットさせるなど女性のマルチタレントの走り的存在となった。

 

この方の存在は正に昭和以降の日本の芸能史そのもので、(敬称略で申し上げます)今ではもはや伝説的存在の榎本健一・古川ロッパ・徳川夢声などのレジェンド喜劇人に可愛がられ、演劇の師匠的存在が三木のり平で、幼少時のおんぶ係が黒澤明で、初恋の相手が吉行淳之介で、友人が美空ひばりや江利チエミで、そのひばりさんを三島由紀夫さんに紹介するなど出てくる交友関係があまりにもスケールがでか過ぎた(また十代の頃愛読の少女雑誌の読者投稿ページの詩の投稿のライバルが上皇后陛下だった)。

また昭和32年に作曲家の神津善行さんと結婚(ちなみに江利チエミさんのヒット曲「新妻に捧げる歌」は妻作詞・夫作曲と夫婦で制作された)、長女が作家の神津カンナ・次女が女優の神津はづき・その夫が俳優の杉本哲太・長男が画家の神津善之介と正に神津家は「華麗なる芸術・芸能一家」となった。

 

とにかく私が物心ついたときは既に大ベテランだったけど番組でちょくちょく見かけていて正に「常にいる存在」であった。

前述の『お笑いオンステージ』は小学生になるあたりで終了したので記憶がほぼ無いが、『クイズ!年の差なんて』の準レギュラーなど色々見てました。

また女優としてだと2時間ドラマ(と言ってもサスペンスでは無く人情ホームドラマ)『おやじのヒゲシリーズ』(主演 森繁久彌)で平成3年のパート9より芦屋雁之助さんと肉屋の夫婦役で出演し東女と浪花男の味のある夫婦はドラマに新たな心地良い風を入れたと言っても過言では無かった。

また面白かったのは、これはBSの再放送で見たのだが『ビッグショー』の桜田淳子さんの回で淳子さんは前述の神津カンナさんと親しくゲストで呼ぼうとしたのだが当時海外にいたので呼べず代わりに神津善行さんが登場したのだが、そんな中で椅子を運ぶ3人の洋装の黒子のうちの1人が明らかに動きが怪しくおかしかったのだが実はその人こそメイコ先生で(つまり結果的に夫婦揃っての出演)、明らかに動きが怪しくおかしく見せるところが今思えば「喜劇女優」の面目躍如といった感があった。

 

近年もラジオ番組や『徹子の部屋』『武田鉄矢の昭和は輝いていた』などのテレビ番組に出演し、前述の通り死の6日前にも仕事をこなし86年の長きにわたる芸能生活を最後まで現役を貫いた事になった。

 

とは言うもののこの先生の死により昭和という時代が一気に遠くなっていった感があった…。しかし86年という年月を芸能人として生きたのは早々出来るもんじゃなく内心は相当大変な面をしながら頑張ってきたと思う、本当に凄い方でした。

 

メイコ先生、長い間本当に御疲れ様でした。

 

 

 合掌