昭和の名力士100+50人・53     (関脇)玉乃海 代太郎 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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◎玉乃海代太郎(本名 三浦朝弘)(大正12年~昭和62年)

 (最高位)関脇 (所属部屋)二所ノ関部屋

 (四股名)福住→玉ノ海→玉乃海


 <初土俵>昭和12年5月 <新入幕>昭和27年9月

 <引 退>昭和36年1月


 (優 勝)1回(全勝1回)

 (三 賞)殊勲賞2回・敢闘賞3回

 (アダ名・形容詞)「荒法師」


相当起伏の激しい相撲人生を送ったが、そんな中で「せっかく○○なのに・・・」という残念な表現が大まかに4つもあります。

昭和15年、幕下昇進を決めた(当時)福住は上海巡業の時に酒に酔って(当時17歳なんだけどね)乗車拒否した黄包車の運転手とケンカになり仲に入った憲兵をも殴り倒してしまい、軍法会議にかけられてしまい相撲協会から破門されてしまった、『せっかく伸び盛りなのに酒に酔ったばかりに破門された』。

その後すぐに応召されて軍隊へ、トラック諸島・ガタルカナル島・テニアン島と転戦。憲兵を殴り倒した過去から「こんな奴死んでも構わない」と最前線に回されたが、ジャングルを逃げこんたりマラリアにかかったりしたが何とか生き延びて、終戦時も任務で満洲にいたのでシベリアで捕虜にされたが脱走して何とか逃げ延びて日本に戻ってきた。帰国後は素人相撲のコーチをしていたが、昭和25年師匠の二所ノ関親方から「破門を解くから戻って来い。」と言われて相撲界に復帰したが、既に10年のブランクがあったのになぜ今頃復帰なのか、正直私も理由がわからない。

しかし復帰すると「私の命は一度なくなった、今の人生は付録だ。」と言って思いっきり打ち込んで、復帰後わずか2年で入幕し、その後も活躍して大関寸前までいったが、再びマラリアにかかってしまい加えて胆のう炎なども併発してしまい休場して地位を下げてしまった、『せっかく大関寸前までいったのに病が重なって大関になれなかった』。

しかし病が癒えた昭和32年11月場所では、黄金色の廻しを締めて登場して見事に全勝優勝を成し遂げて上位に戻ってきた。大関こそなれなかったが38歳まで戦い抜いた。しかし同じ部屋の同期である神風さんに言わせると「ブランクさえなかったら間違いなし横綱だった。」と惜しまれた。

引退後は独立して片男波部屋を創設して横綱玉の海を育てたが、これからという時に玉の海が急死してしまった、『せっかく玉の海が大横綱になれるところだったのに急死してしまった』。その後は玉ノ富士・玉輝山を育てて何とか立ち直り、無事に定年を迎えると思われたが直前に急死してしまった、『せっかく定年を迎えるはずだったのに直前で急に死んでしまった』。

余談だが、酒に酔ったのが元で(しかも酒癖が悪い)いったん破門されて超苦難の時期を送ったので酒の方は懲りたのかというとこれが全然懲りてなくて、復帰後も酒癖の悪さは変わらず相手がヤクザでも警官でもケンカを売ってしまうという(しかも親方になってからでもだ)。たぶんこれを聞いた人は100%こう言うだろう、

「あんたまだ懲りてないのか、いい加減懲りろ!」