昭和歌手列伝・35 フランク永井 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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とにかく私自身の趣味・思うことなど書き込んでいきます。

◎フランク永井(昭和7年~平成20年)(紅白歌合戦26回出場)

○主な名曲<昭和32年>「東京午前三時」「夜霧の第二国道」

                「13800円」「有楽町で逢いましょう」

       <昭和33年>「こいさんのラブコール」「ラブレター」

                「羽田発7時50分」「俺は淋しいんだ」

                「西銀座駅前」「公園の手品師」

       <昭和34年>「夜霧に消えたチャコ」「冷たいキッス」

                「東京ナイトクラブ」

       <昭和35年>「好き好き好き」「東京カチート」

       <昭和36年>「君恋し」

       <昭和37年>「霧子のタンゴ」「初恋の詩」

       <昭和38年>「赤ちゃんは王様だ」「逢いたくて」

       <昭和39年>「大阪ぐらし」

       <昭和40年>「東京しぐれ」「妻を恋うる唄」

       <昭和41年>「大阪ろまん」

       <昭和43年>「加茂川ブルース」

       <昭和47年>「おまえに」

       <昭和57年>「Woman」

○のど自慢荒らしとして鳴らし、昭和30年に『素人のど自慢』年間ベスト1になったのを機に同年プロ歌手としてデビュー。当初はジャズ専門だったが、作曲家吉田正と出会い歌謡曲に転向、昭和32年に「有楽町で逢いましょう」の大ヒットで低音ブームを巻き起こし、その後もヒット曲を連発、紅白歌合戦連続26回出場は当時の最多記録。しかし昭和60年に自殺未遂により脳に障害を負い、その後リハビリ生活の末復帰ならずに亡くなった。


あの自殺未遂から23年も生きながら復帰ならずに亡くなった事をどんな思いで言えばいいのだろうか、悲しくてたまらない、絶望的だと言われていても私はフランクさんが戻って来るのを待ってました、しかし残念な結果になってしまい、今でも空しい思いが続くと共にあの当時フランクさんを追い詰めた事柄に対し内心忸怩たる思いを持っている。

例の自殺未遂は私が小学4年生の頃だったのでリアルタイムでは数える程しか見れなかったが、私にとってフランクさんは三橋美智也さんと共に人生において影響を受けた大好きな歌手であります。その渋い低音による東京を舞台にした都会派ムード歌謡が大好きだし、東京だけでなく大阪を舞台にした歌も大好きでフランクさんの優しく柔らかい歌い方が大阪ものにもマッチしていた。中学生の頃にフランクさんのカセットを買ってよく聞いていたので好きな歌がたくさんあるし、カラオケでも三橋さんの歌と同様にフランクさんの歌も必ず歌っている、「公園の手品師」「君恋し」「有楽町で逢いましょう」「俺は淋しいんだ」「大阪ぐらし」「こいさんのラブコール」「Woman」など挙げたらキリがない。

『紅白歌合戦』では昭和32年の第8回で島倉千代子さんと共に初出場、以降島倉さんと共に出場回数を重ねて昭和51年の第27回で史上初の20回出場を島倉さんと共に達成、その後昭和57年の第33回まで26回も最多出場者として君臨したが、それなのにあれだけの実績がありながら1回もトリがなかったのが残念である。

自殺未遂からもう25年、フランクさんを知らない若者が増えてきた。自殺未遂さえなければ少なくとも私より若い人に低音の魅力を伝えられたと思うと本当に残念でならない、そして早いもので明日はフランクさんの3回忌、今でも復帰ならずに亡くなった事を残念に思う・・・。


 追伸

コロムビア・ライト師匠が亡くなられた、コロムビア・トップ師匠とのトップ・ライトの漫才で一世を風靡した。個人的にはテレビ東京『なつかしの歌声』の司会の方の印象になる、玉置宏先生に続いて大切な「なつメロ水先案内人」がいなくなってしまった・・・本当に残念だ。

 合掌