昭和の名力士100+50人・50     (関脇)信夫山 治貞 | 郵便局員のごった煮よもやまブログ

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◎信夫山治貞(本名 本間栄)(大正14年~昭和52年)

 (最高位)関脇 (所属部屋)小野川→陣幕→小野川部屋

 (四股名)本間→吾妻山→本間→信夫山


 <初土俵>昭和15年5月 <新入幕>昭和25年9月

 <引 退>昭和35年9月

 <親方名>竹縄→山響(昭和40年9月限り廃業)


 (三 賞)殊勲賞1回・敢闘賞1回・技能賞6回

 (アダ名・形容詞)「りゃんこの信夫」


♪つま先立てて海へ~モンローウォークして行く~

なんて歌もありましたが、大相撲でモンローウォークといえばこの信夫山のことである。土俵上でお尻を左右に振って歩くモンローウォークと共に色白の肌と明朗な笑顔とスマートな感じの姿で女性ファンの人気が高く、中には女子高生だけのファンクラブも存在したくらいである(羨ましい・・・)。

「りゃんこの信夫」のアダ名があるだけに、この人の得意技は両差しになっての速攻での寄りである、しかももろ差しの体制に整えてから寄るのではなく寄りながら差していく早業で、横綱・大関陣はこの早い両差し攻めに苦しめられた。しかし(初代)若乃花にはなかなか通じず、どうやったら勝てるかと思案に暮れたがふと雑誌「相撲」昭和31年11月号の表紙の(初代)若乃花の仕切りの姿を見て(初代)若乃花の右腕がやや前に出て右脇が少し空いているのに気が付いて、明けて昭和32年1月場所での対戦で立合いに左から一発張ると(初代)若乃花は上体を起こしたと同時に右脇が空き、そのスキを付いて両差しになり一気に寄り切って勝利したのである、これが有名な「雑誌の表紙をヒントに打倒若乃花を果たした」エピソードである。

戦争時に応召され敗戦によりソ連の収容所に入れられるも脱走して命からがら日本に戻ってきた苦労人。非力と弱い腰をカバーするためにいろいろなトレーニングをして強くして名関脇の地位を得たのだが、長いこと頑張ったが故に最後はヘルニアが悪化してしまい引退、親方になっても体調が悪化するばかりで協会も去ってしまい、療養の末に若くして亡くなったのは寂しい。しかしあの両差しとモンローウォークの姿は直に見た人にとって永遠に輝き続けるだろう。