◎琴ヶ浜貞雄(本名 宇草貞雄)(昭和2年~昭和56年)
(最高位)大関 (所属部屋)二所ノ関→佐渡ヶ嶽部屋
(四股名)宇草→琴ヶ浜
<初土俵>昭和20年11月 <新入幕>昭和25年5月
<新大関>昭和33年5月 <引 退>昭和37年11月
(三 賞)殊勲賞2回・敢闘賞1回・技能賞5回
(アダ名・形容詞)「(初代)南海の黒豹」
琴ヶ浜といえば何と言っても必殺技の内掛けである、動き回って掛けるやり方ではなく相手の出方を待って機を見て一気に足を掛ける攻め方で掛かった時の切れ味は抜群であった、元々足がX脚気味だったのが内掛けにはもってこいの足だった。時には本場所で8勝のうち6勝が内掛けで勝ったという事もあった。
これだけの凄技を持っているのだからさぞ相当な人気力士と思われがちだが、ある資料によれば「派手な人気はなく、どちらかといえば悪役的存在だった。」と書いてあったが、それを目にするまで(他の書物やビデオで見てても)そんな感じは全くなかったので「やはりリアルタイムで見ると見ないじゃ大違いなんだな。」と改めて感じた次第である。
ほぼ同時期に相撲界に入った(初代)若乃花や少し先輩の芳ノ里(プロレスラーとしても有名)と若い頃は狂ったような猛稽古を毎日続け、関取になってからも1日100番の申し合いがザラで(初代)若乃花に負けず劣らずの稽古の鬼であり、その稽古を見た人の「あれでも人間か?」という一言が稽古の凄まじさを物語っている。
大関昇進直前の3場所が34勝と(10勝・11勝・13勝)文句ない成績で大関昇進、その後のしばらくは好成績が続き横綱目前と言われたが、その後は怪我が続いて休場が多くなったが約5年間名大関として矢折れ力尽きるまで戦い抜いた、また当時は3場所連続負け越しで大関陥落だったのでそのルールも大きく作用した,(ちなみにカド番は3回だったが3回とも何とか乗り切った。)。
昭和56年6月に亡くなったが、その翌年に息子が後を継いで入門し、三段目優勝を機に二代目琴ヶ浜を襲名したが、残念ながら関取になれずに終わった。