ぼたん鍋を食べて物思いにふける夜 | ぽんのあれこれ

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徒然なるままに日暮し、スマホに向かいて心に移り行くよしなしごとを書き連ねます。基本的には忘備録。


気になったらお好きにコメントしていただければと思います。

さて、我が家の冷凍庫はこんな感じでイノシシさんが大量に鎮座しておられましたが、友達やら知り合いやらにかなり配り、ある程度は目星が着いてきたんですがまだまだ色々と味わえそうです。


お肉は焼くのが好きなんですが、やっぱりアレ食べたいなと。

寒い時期は鍋っしょ!


ということで、前に半冷凍にしてからスライスしていたモモ肉を


味噌とニンニクと生姜で下味つけて


白だしと昆布でベースを作ってからお肉を投入!


きのこ、野菜、マロニー、豆腐を投入して追い味噌で味付け!!!


完成ー!


味噌ベースのぼたん鍋、もうこんなん優勝に決まってます。実家のコシヒカリ炊きたてご飯も山盛りしちゃいます。

臭いがないので味噌に漬ける工程は要らんかったような気はしますが野菜とイノシシをうまーーく繋いでくれるのが味噌ベースですね。煮ても硬くならない良いモモ肉でした。小さくすれば子供でもパクパク食べられる柔らかさでした。

野菜との相性も抜群で、臭い訳じゃなくて良い意味で豚とは違う力強さを感じる出汁が出てます。自分で獲ったからという色眼鏡があるにせよ、これは美味しいですね。しみじみと美味しく力強い。

そりゃもう最後の一滴まで飲み干しましたよ。なんなら次の日の朝ごはんになりました。ごちそうさま!

やっぱり寒い冬はぼたん鍋。もうひとつのスライスは醤油ベースのぼたん鍋にしてみたい所存。

憎きイノシシですが、自然の恵みに感謝です。食べてみたいそうなのでお世話になってる渡船にもブロック持っていきます。



話は変わって、イノシシ猟と文化について調べてる方がおられました。曰く、昔から里山の人々にとってイノシシ肉は人と人とを繋ぐ大切なツールだったそうです。生き物を肉にするというどうしても普段見えない営みの影とされがちな部分であり、それでいてとても大切な仕事であり、そんな二律背反な理の中で人と人を繋ぐのがイノシシ肉の「お裾分け」の文化であり、お裾分けが命の重さやありがたさを通して人と人を繋いでくれるんだそうです。

とても大切なツールだと思いますが、そういった部分は今日の社会では敢えて見えない、見せないようにしていると感じます。情報化社会の中ではSNSが繋いでくれると思う方々も若い人には多いのではないでしょうか。

それ程までに僕らの社会というのはいつも綺麗にパックに並べられた精肉や魚でしか馴染みのない、ツールとしての機能がなくなったただ消費の目的物でしかない肉や魚にしか触れることがないのです。

だからお店に並べられる時には命の大切さとか、恵みの概念だとか、そういった部分は一切見えないわけで「いただきます」も「ごちそうさま」も今ではとても軽々しいものとなってるように感じます。

僕は幼い頃から食べ物を残すとか捨てるということがすごく嫌で大人になった今でも宴会の食べきられなかった料理や、冷蔵庫で野菜を腐らせたりなんかした時には食べ物に対してすごい罪悪感と申し訳なさを感じるし、賞味期限が多少過ぎたくらいなら構わず食べちゃって嫁さんにドン引きされたりもするんですが、この性分は昔から命を頂くということについて他人よりちょっと真剣に考えて来たからかなと思ってます。

自作の鮎タモ網と鮎。実は鮎もやります。

幼い頃、釣ってきた鮎をオトリ缶から引き上げて生きているうちに内臓を出した時に主なきまま懸命に動いていた心臓を見たときに普段は何の気なしに捌いていたはずなのに暫く包丁持つのが怖くなったときがありました。

そんな体験があったからこそ普段から魚を釣って命を頂くということ、それをいかに美味しく最後まで無駄にせず糧とするかは自分なりに度々考えてきたつもりですが、狩猟をするようになって暖かい生き物の命を自分のものにする時はそういった事を普段より少し余計に考えてしまいますし、より美味しいものにしたいと思うし、その命を少しでも有り難く頂いて貰えるような人にお裾分けしたつもりでいます。

巷ではフードロス削減だ、食育だと声高に叫ばれていますが、一体その中のどれだけの人が自分の手で生き物を肉にした事があるのでしょうか。そういった側面を実体験として食を通して生き物に限らず自分の子供にも伝えることが出来たら良いなと思った夜でした。