生きるということ② ─『街場の読書論』(内田樹)─ | 出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

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「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

 朝、川沿いを散歩していたら、ウグイスの鳴き声を聞きました。まだ「ホーホケキョ」と鳴けなくて、「ホーキョキョ」でしたが、そのうち上手になるのでしょう。

 家に帰ると、気の早い花が咲いていました。

 苗木から育てていたアカシアが、今年初めて花を咲かせました。

 春です。

 花たちが、この時期だけの美しさを競うように見せてくれています。

 

 もしも、造形的にも、香りも、触感も、まったく同じであったとしたら、「生きた花」と「死んだ花」(プラスチックの造花)の本質的な差はどこにあるか。差は一つしかない。「生きた花」はこれから死ぬことができるが、「死んだ花」はもう死ぬことができないということだけである。

 美的価値とは、畢竟するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能性のうちに棲まっている。

 (内田樹、『街場の読書論』より)

 

 昨日のブログで、『火の鳥』の言葉を取り上げ、「永遠の命」について考えたことを記しました。

 いつか無くなると思うから、それを美しく感じ、大切にしようと思うのでしょう。

 

 話はとびますが、私が中学生の頃までは、音楽をレコードで聴いていました。

 高校になった頃、初めて「CD」というものが発売され、以降、しだいにレコードはなくなっていきました。

 レコードは、何十回も聴いていると、明らかに音が劣化します。しかも、雑音が増えます。一方のCDは半永久的によい音で聴くことができます。

 それでも私は、レコードに針が下りる瞬間の緊張感が好きでした。もっと言えば、音質は明らかにCDに劣るのですが、古びていくレコードの音も、「ブチッ、ブチッ…」と時折入る雑音も好きでした。

 今は、もうレコードプレーヤーも、レコードも、家にはないのですが、でもレコードの方が1回1回を大事に聴いていました。

 

 時を経て生まれてくる味わい。永遠ではないことから生まれる1回の重み。それらは、レコードも「生きる」ことも同じなのだと思います。