佐野洋子さんの『100万回生きたねこ』に捧げる短篇集です。
「生きる気まんまんだった女の子の話」(江國香織)
自分を大切にしてくれる人たちを、決して好きになろうとしない女の子の話。
「だって、誰かをコッコロから好きになっちゃったりしたら身の破滅だもの。孤独が大事なの。知ってるでしょう? 百万回も死んで、百万回も生きた立派なトラ猫の話を。あの猫は、王様のことも船乗りのことも、おばあさんのことも子供のことも好きにならなかったからあんなに何度も生きられたのよ」
女の子は、生きる気まんまんなのでした。
「おかあさんのところにやってきた猫」(角田光代)
飼い主である「おかあさん」に溺愛された猫・おちびちゃんの話。
しかし、おちびちゃんは、外の世界の魅力を知ってしまいます。そしてしだいに、あんなに大好きだったおかあさんから心が離れていきます。
それでも、年老いたおちびちゃんが最後に帰る場所は、おかあさんの所なのでした。
息を引き取る間際、おかあさんの腕の中でおちびちゃんは思います。
また、きてね。耳元で声がする。また、ここへきてね。
うん、くるわ。わたしは答えるけれど、きっと声は出ていない。でも、言う。くるわ。また。何度でも。あなたにまた、会えるまで。
ありがとう。声はささやく。
どういたしまして。こちらこそ、ありがとう。わたしもつぶやく。
「100万回殺したいハニー、スウィート ダーリン」(山田詠美)
自分を大事にしてくれていた人が亡くなるたび、悲しみのあまり病のようになってしまう「私」は、100万回生きたねこを読みながら、「誰も愛していないって、なんて気楽なのだろう」と感じます。しかし、ねこが白いねこと出会った場面を読んだ瞬間から、心がそわそわし始めます。
私の予感通り、白いねこを愛してしまったねこは、その死に際して泣いて泣いて、泣いて死んだ。そして、今度は、もう生き返らなかった。心から愛した者の喪失は、決して彼の生をリセットさせなかったのだ。うんと幸せになった故に、うんと不幸せになってしまったねこ。ばか、ねこのばか。私を散々羨しがらせておいて、このていたらく。結局、私と同じ穴のむじなじゃん。猫、だけど。
『100万回生きたねこ』は、こう終わります。
ねこは、白いねこの となりで、しずかに うごかなく なりました。
ねこは もう、けっして 生きかえりませんでした。
たくさんの作家が、トリビュートした『100万分の1回のねこ』を読むと、もう一度「100万回生きたねこ」がよみがえってきます。
「100万1回目のねこ」に、あなたは何を思うでしょうか。