職場のスキー旅行の帰り道、清水妙子は、光岡君に求婚されます。
清水さんの苦労には及びもつかないけれど、僕は僕なりに頑張ってきたつもりです。
・・・清水さん。僕の嫁さんになって下さい。後生一生のお願いです。
お願いです。お願いです。
光岡君の家にバスが近づき、光岡君は「清水さん、降りよう」と誘います。
しかし、妙子は、光岡君に好意を抱いていたはずなのに、どうしても一緒に降りることができませんでした。
清水さんの苦労には及びもつかないけど、と光岡君は言った。その言葉が一等、身に応えた。自分では苦労な人生だなどと思ったためしもないのに、きっと他人からは真実が見えていたのだ。そういうことならば、じっとこうして蹲っているほかはない。片隅に身をこごめてさえいれば、苦労を苦労とは思わず、不幸をささやかな幸福で塗り潰して、生きてゆける。
数十年後、あるカップルがスキーバスの後ろの方にたたずむ上品で、美しいおばあさんを見かけます。女の子が話しかけると、そのおばあさんは静かな声で語り始めるのでした。
「降りられなかったの。どうしても─」
新しい幸せに向けて、一歩を踏み出せなかった妙子を描いた物語ともとれます。でも、そこから後悔が感じられないのです。
感じられるのは、「降りられなかった」ことで妙子が身にまとった、ささやかな幸せの時間。
悲しみも、背負ってきた不幸も、自分の大切な人生の一部なんだ。そんな気持ちが妙子のささやかな幸せの源泉にあるのではないかなと思うのです。だから、妙子は美しく年を重ねていったのではないのかと。
不思議な世界。そして、余韻を残す言葉。短編の妙手、浅田次郎さんらしい作品で、私は好きです。