割り切れない人生こそ人生 ─『ジキル博士とハイド氏』(スティーヴンソン)─ | 出会った言葉たち ― 披沙揀金 ―

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「披沙揀金」―砂をより分けて金を取り出す、の意。
日常出会う砂金のような言葉たちを集めました。

いたずら好きでありながら、兵十の心の中を慮り、つぐないし続ける「ごん」。

歌人・穂村弘さんや、元横綱・輪島さんのいろいろな側面。

強さとともに泣きたくなるような心をあわせもつ「かぶとてつお」。

 

 これまで、ブログを書き続けながら、心の中にいろいろなことを抱えていることがその人の魅力となって現れるんだ、ということを述べてきたように思います。それは、意図してそう書こうと思ったのではなく、不思議とそこに帰着していくという感じでした。

 

 

 スティーヴンソンに『ジキル博士とハイド氏』という小説があります。

 ジキル博士は、自分の中にある善と悪の側面の分断を試みます。自ら開発した薬により、善良なジキル博士は、醜悪かつ邪悪の象徴としてのハイド氏に姿を変えるのでした。

 結局、ジキル氏は身を滅ぼしていきます。

 

 このことについて、内田樹さんが、次のように述べています。

 

 ジキル博士とハイド氏の没落の理由は、知性と獣性、欲望抑制と開放をひとりの人間のうちに同居させるという困難な人間的課題を忌避して、知性と獣性に人格分裂することで内的葛藤を解決しようとしたことにある。(内田樹『街場の憂国論』より)

 

 よく、「自分勝手に生きられたらもっと楽なのに。」と思ったり、逆に、「もっと人にやさしい人になりたい。すぐに人を妬む自分が嫌だ。」と思ったりします。もっと心が単純であれば、悩むことなく、すっきりと生きられるのかもしれません。

 しかし、やはり、いろいろな側面を自分のうちに「同居」させながら、困難な人生を、行きつ戻りつしながら歩んでいく。それが人間らしい生き方なのではないでしょうか。

 そこから逃げてしまった時に、人間としての生も終わってしまう。そう『ジキル博士とハイド氏』が教えてくれているように思います。