外に雪が積もっているのを見ながら「雪だよ」と教えられた子供が、床におちたタオルやこぼれたミルクも「雪」と言ったりする。地面にある白いものはみな「雪」だと思うようだ。あるいは、「おつきさま」ということばを覚えた子どもが、グレープフルーツやレモンの輪切り、丸い掛け時計、クロワッサン、光があたってきらきらする葉っぱも「おつきさま」と呼ぶようなこともある。
(今井むつみ、『学びとは何か ─〈探究人〉になるために』)
子どもは、覚えたことばを、それに「似ているモノ」全般に手あたり次第使いながら、そのことばを他の状況で使っていくための手掛かりを自分で見つけていく。今井さんは、その著書『学びとは何か』の中で、そのように言います。
子どもがみな詩人であるのは、言葉へのこのような興味や探究心が素直に現れているからなのでしょう。そして、大人の詩人(変な言い方ですが…)とは、決して本当に「床におちたタオル」を雪と思っているわけではないのですが、そのような子どものころの感じ方を忘れないでいられる人、心の中に呼び起こすことのできる人なのでしょう。
「正しい言葉の使い方の枠」を知るごとに、このような言葉のおもしろさ、豊かさが遠くへ行ってしまいそうになります。だから、ときどきは、その枠をくぐりぬけて、自由で楽しい子どもの言葉の世界で遊ぶのもいいのかもしれません。そして、枠を越える魅力というものは、言葉の世界だけに限らず、昼食のお店選び、散歩のコース変更など、小さな日常のいろいろなところにもあるのでしょう。
このブログを始めたこと。私にとって、枠を越え、新しい世界に足を入れた貴重な経験です。