氷の下に閉じ込められた三頭のくじらの親子。
狭い氷の隙間から、交替で息継ぎのために顔を出す。
だけど、すぐにまた引っ込む。冷たくて暗い、息苦しい氷の海へ。
高校生・理帆子が生きるのは、このくじらの世界。
友達や家族と同じ場所にいながら、見えない壁をつくり、自分の世界を構築する理帆子。
どこにいてもそこに自分の居場所を感じられず、誰とも繋がれない。なのに、中途半端に人に触れたがって、だからいつも息苦しい…。
そんな理帆子は、自分を「少し・不在」と名付けます。
辻村深月さんの小説『凍りのくじら』を読みながら、
「あ、これは、自分だ。理帆子は自分だ。」
と感じました。
「共感」をこえて、まさに自分自身。「性別も年齢も大きく異なるのに」と思いながら、しだいに小説の世界に引き込まれていきました。
この物語のキー・パーソンとして「別所あきら」が登場します。
別所は、冒頭のくじらのニュースについてこう語ります。
「最後の一頭のところに行きたかった。・・・ 傍に行きたかった。弱っていくのを見てられなかった。どうにかしたかったんだ」
この別所の言葉に重要な意味が隠されていますが、そこは、ぜひ本編で。
さて、物語が終盤にさしかかるころ、理帆子のこんな心の声が現れます
私は確かに人を馬鹿にし過ぎる。あんたと同じ、人を人とも思わない個性をしてる。だけど違う。私は羨ましいんだ、美也たちが大好きなんだよ。人間が好きなんだよ。
私は、この言葉に救われました。
自分も、いつも「少し・不在」を感じていたけど、決してそれは負の感情ばかりから来ていたんじゃないんだということ。世界をあるがまま受け入れ、楽しみながら生きている人たちに憧れ、そして自分にはないところに気おくれしていただけなんだということ。
理帆子の「帆」は、陽光にきらめく波の上を走るヨットを連想させます。
周囲の人の「光」の温かみが氷を溶かし、理帆子は氷の海から抜け出していきます。
私たちの周りは、そんな「光」が満ちているはずです。
そして、同じ光を周りのみんなに届けることができるはずです。
成長した理帆子のように。