『哲学の使い方』は、鷲田清一さんの本。鷲田さんは、朝日新聞の一面に「折々のことば」を連載している方です。
正直、少々手強い本でした。
「ほんとうに大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題がじぶんのなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水しつづけるということである。知性に肺活量をつけるというのはそういうことである。
本を読みながら、潜水し続けました。それでも、時々水面に浮上し、太陽の光を受けて「ぷはっ!」と呼吸ができたような心地よさを味わうこともできました。
潜り、浮上し、また潜り、を繰り返しながら、ふと工藤直子さんの『てつがくのライオン』という詩が頭に浮かんできました。「ぼくはきょう、てつがくだった。」と、かたつむりに語るライオンが登場する詩です。「てつがく」の雰囲気に憧れている私に、ライオンが重なったからでしょうか。
すると、驚いたことに、この本の終章に、『てつがくのライオン』が出てくるではありませんか。
しかも、それまでの鷲田さんの論を投影して。
「てつがく」は、誰かと支えあうダイアローグの中にあること。つまり、ライオンにとってのかたつむりという存在。
「てつがく」は、生活をしながら生活について考えるものだから、言ってみれば1日に25時間目以降の時間を作ろうというもの。だから、ライオンのように肩もこれば、お腹もへる。
そして、人は、《存在の承認》に支えられ、25時間目の作業に入っていけること。かたつむりの「うん。とても美しくて、とても立派」という《承認》が、ライオンを再び、「てつがくする」ライオンにしたように。
分からないことを楽しめる。分からないけど読もうと思える。これを「てつがく」と言わせていただけるのであれば、私は、この本で十分に「てつがく」しました。