■すべては、ありえること

アルフレッド・アドラーは、

街中のカフェで心理学仲間と

議論を交わすのが好きでした。

 

そして、アドラーは、

自分が他者に語ること(教えること)は

実体験による裏付けができること

を自身に厳格な課題として

課していました。

 

そうして他者と議論を交わすと

相手の話す内容は、

実体験に基づいておらず、

先入観であることも多かったようで、

それは私の方法に比べると

徹底的なものではなかった」と

アドラーは指摘しています。

 

そこでアドラーは

自分ってすごいだろ?

という方向には進みませんでした。

 

徹底的に観察したアドラーにすれば

相手を

「議論でねじ伏せる」とか

「論破する」とかは

簡単だったはずです。

 

しかしアドラーは、

そうしませんでした。

 

なぜなら、

それは力の追求、すなわち、

個人的利益の追求となり、

自ら提唱する共同体感覚を高める活動では

なくなるからです。

 

逆に見ると、

共同体感覚を高める活動をしているから

力の追求はする必要はない

ということです。

 

アドラーにとって

議論の相手は敵ではなく、

ともに議論をする仲間なのです。

 

その基礎には

すべてのものは、

個別のものでもありえる

があったため、

アドラーがそうするのは

簡単だったのです。

 

■すべて”個人”の理解に役立つ

アドラーは、

議論の相手の話の内容に

徹底的の不足を感じると、

一緒に検証するようにしました。

 

そのやりとりの基礎には

すべてのものは、個別のものでありうる

との信念がありました。

 

現代風にいえば

十人十色、人それぞれ、多様性の肯定、

みんなちがってみんないい、

といった感じになります。

 

つまりは

「あってはならないものなど無い」

「すべてのものそれぞれはあってもよい」

ということです。

 

意見や考えは人それぞれであり、

あってはならない意見や考えはない、

ということです。

 

 

アドラーがなぜ

議論の卓上にあがる考えすべてを

大切にしているのかは、

”個人”を理解するためと思われます。

 

共同体(人の集まり)に対する

”個人”です。

 

その”個人”への理解を深めるために

様々な意見や考えが

様々な気づきやアイデアを

与えてくれると信じているのです。

 

 

相手の意見を否定したくなったとき、

これを思い出すことで、

今までとは違ったやりとりの方法を

選ぶことが簡単になりますね。

 

 

 

 

 

 

お読みいただき、

ありがとうございます。

 

プロコーチ11年目、常楽でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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