称号とは
何かの価値に対して
つけた呼び名のことです。

私の母親とのやりとりで
よく気になったことが、
母親はこの称号があるから
価値があると信じていることです。

例えば、
「東洋の魔女」とは
昭和30年代に活躍した
女子バレーボール日本代表チームに
付けられた呼び名です。

1961年の欧州遠征で
24連勝したために、
現地メディアが「東洋の魔女」と
呼んだのが、この呼び名の始まりです。

1964年の東京オリンピックでは優勝し、
強いチームでした。

この24連勝した事実について
現地メディアが「強い」と感じて
付けられた称号が
「東洋の魔女」であり、
「東洋の魔女」だから
「強い」があるわけではありません。

「東洋の魔女」だから24連勝できた
のではありません。

しかしこれが、
私の母親の手にかかると
順序が逆になり
「東洋の魔女」だから「強い」
となってしまいます。

つまり、私の母親の中では
「東洋の魔女」に価値があるのであり、
「強い」の事実については
まるで無関心なのです。

これが母親一人のことであれば
何も問題ありません。

カルト教団の信者や
”盲信”のような思考ですが、
一人で完結していれば
何の害もありません。

しかし、私の母親の場合は、
「東洋の魔女だから強い」
という考え方を
事実として私に教えてくれたので、
私にとってこれは
ただただ迷惑なだけでした。

都市伝説のようなことを
例えば
「3人で写真を撮ると
真ん中が最初に死ぬ」とかですが、
母親はかたくなに信じており、
それを私にも事実として教えてくれました。
(この頃、死にたくないので
これを必死に守ってました。)

今なら、
「その根拠は?」と
確認できるので大丈夫ですが、
幼い当時は
「母親の言うことは正しい」と
信じ切っていたために
言われるがままに信じてました。

そう信じたことを
家の外で話すと、
案の定、否定されます。

根拠の提示もできないので
だっておかあさんが言ったから
正しいことだよ
」と言うくらいしか
できないのです。

根拠を知っている人からすれば
価値が先で、称号が後ですから、
私がおかしいことを言っていると
すぐわかるわけです。

結果、嘲笑されます。

そうして恥をかいて、
それを家に帰って母親に話すと
「他人のことはいいの。」
と言うだけです。

母親を信じたいけど、
信じるほど恥ずかしい思いをする、
そんな二律背反な状況でした。


私が高校生の頃、
父親が車を買い替えたときに
その車の会社がつけた
キャッチコピーを持ち出して
〇〇と言われているから
この車は良い車ですよ
」と
教えてくれました。

そのキャッチコピーは
買う人にその車の価値を
簡単に伝えるために
車の会社の人が作った言葉です。

しかし母親は、
そのキャッチコピーは
人々の中に自然発生した言葉
みたいに信じ切っていて、
車の何が良いのかを
自分自身で確認することもなく
そのキャッチコピーがついているから
良い車だと熱心に説明してくるのです。

価値があるから
キャッチコピーができたわけで、
キャッチコピーがあるから
価値があるわけじゃないのに。

その”盲信”を
当時の私は
とても恐ろしく感じました。

母親に
すべての人がその車を
良いと言っているわけではないと
言ってみても、
「だってそういわれてるじゃない」
と一蹴されて終わります。

聞く耳を持ってくれません。

対話が成立しないのです。

実の母親が子の話を聞かない、
これによって
必死に自分を守っているように
見えました。

話をしてしまうと
根拠を確認せずに
盲信していることが
露呈するから、
話に応じないのでしょう。

この人は、
自分を守るためなら
子との関係が悪くなっても
問題としないのです。

ああ、この人とは
分かり合えないのか。

ああ、この人は
子の自分を大切だと言っているが、
言っているだけで
実際には違うのだな。

一番大切なのは自分自身であり、
いざというとき母親は、
私を見捨てる人なんだ。

そんな思いに
とても悲しくなりました。

そしてこれは
今も変っていません。






お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。



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