今日は、
「子が服従しないと嘆く親」
という視点から、
不適切な教育をしないために
知っておくと役立つことについて
書きました。

不適切な教育をすると
子も大変ですが、
親も大変になります。

反対に適切な教育をすると
子の社会適応能力が高まるまでは
親は大変ですが、
適度に高められたなら
そこですばらしい成果を体験できます。

目次
・目的は「子の社会適応能力を養うこと」一択
・子が孤立する、という悲劇
・自分で考えて決める、ができない子
・いくら努力しても幸せになれない
・適切な教育を目指す


■目的は「子の社会適応能力を養うこと」一択

子は、親の自分に服従することが
善いことである、と信じる親は、
子が思い通りに服従しないことを
よく嘆きます。

”嘆く”とは、
悲しんだり怒ったりの表現を
することです。

悲しんだり怒ったりの表現をするのは
誰かを非難するときです。

つまり、
そのような親は、
悪いのは子であって
「自分は何も悪くない」

信じているのです。

教育する上で
「誰が悪い」は役に立ちません。

その善悪は
人によって決まる主観的なもの
であるため、
人によって違うことが
よくあるからです。

教育の目的は
子の共同体感覚を高めて
社会適応能力を養うこと
ですが、
どこでどう間違ったのか、
「子が親の自分に服従する」という
手段を目的にしてしまっているのです。

子が親に服従したからといって
子の共同体感覚は高まりません。

単に
子が親に服従すると
親の「子を服従させる」という
目的が実現するだけです。

親は自分の目的が実現すれば
満足するでしょう。

その満足を得られないことに
困難を感じる親が
子を”悪”とすることで
自分を”善”にしているだけです。

親の”善”がいくら証明されても
子の社会適応能力が養われなければ
教育にはなっていませんので、
子の服従を目指す親の活動は
教育としては失敗しています


だから、
親が子を教育することについて、
「誰が悪い」の答えを探すこと、
そして、
子を親に服従させようとする活動は
役に立たないのです。

■子が孤立する、という悲劇

子が、
誰の影響を受けたいと望むかは
子が自由に決められることです


子が服従しないと嘆く親の
子を親に服従させようとする活動は
その自由を阻害しています。

自由を阻害された子は、
この親は自分の権利を保証してくれない
と感じます。

人が影響を受けたいと望む相手は、
自分の権利を保証してくれる人、
すなわち、
自分を対等な関係で
大切に扱ってくれる人です。

つまり子は、
自分の権利を保証しない親の
影響は受けたくない
、と望むのです。

そうなると、
親は子を服従させたいと望み、
子は親の影響を受けたくないと
望むので、
互いに対立することとなります。

対立は戦いを生み、
次第に親子関係は悪くなっていきます。

親は、服従しない子を責め立て
「自分が善で子が悪」の構図を
示すことで子を服従させようとし、
子はそんな親の影響は受けまいとして
反抗的な行為で応えるような
状況となっていきます。

アルフレッド・アドラー
この子の心を「反抗心」と
呼んでいます。

このような状況になると
悲しいことに子は
家庭という共同体と
敵対関係となってしまいます。

つまり、子は
家庭という社会において
孤立してしまいます


アドラーいわく
孤立とは社会的な死」です。

親が自分の満足のために
子を社会的な死へと
追いやってしまうなんて
まさに悲劇です。

■自分で考えて決める、ができない子

孤立した子は
生き延びるために
最終的には自分の反抗的な行為に
制限をかけ、
親に服従することになります。

子の生命は
家庭に依存しているため、
自分をいつわってでも
生き延びることしか
方法がないのです。

アドラーはこのような服従を
盲目的服従」と言っています。

さらに、
これについてアドラー
次のように言っています。

そのような服従は、
人を人生に対して無能力にする
という気持ち悪い形で現れる。


その”気持ち悪い形”とは
現代の言葉で表現するなら
「イエスマン」です。

自分で思考し、
自分で決めることは
最初から諦めており、
誰かから必要な行動と
その実現方法を命令されることを
常に待つような人になるわけです。

これをアドラー
過度な服従」と表現しています。

こうして抑圧的に生きる子は
権力を持っていると見られる人に
従うことを好むようになります。

そして(嫌な話ですが)
アドラーの指摘によれば、
命じられれば何でも行うような
大人になっていきます。

それがたとえ
犯罪となることであっても。

■いくら努力しても幸せになれない

このような育ち方をすると
子は力を得ようと努力します。

他者よりも強くなることで
服従する側から
服従させる側に立とうとするのです。

このような子に
適切な教育をしようとするのは
困難になる
アドラーは指摘しています。

子は、
”服従させる側に立っていると見える人”に
「偉大さ」を感じ、
自分もそんな偉大な存在に
なろうとするのです。

これをアドラーは「野心」と
言っています。

つまりは
他者は倒すべき敵であり、
自分に服従する者だけが味方である、
との信念
を持つようになります。

アドラーはこれについて
野心を目指す方法は不適切であり、
精神生活の発達を妨げ、挫折させる。

と指摘しています。

精神生活の発達を妨げ、挫折させる、とは
他者との関係が持てなくなること
意味します。

他者と関係するのは
自分に利益があると見込めるときだけで、
自分が他者の利益に貢献するなどとは
考えなくなるわけです。

この状態は
社会適応能力が発揮されておらず、
共同体感覚から離れた状態です。

共同体感覚から離れた状態では
感じるしあわせを増やすことは
できません。

つまり、
いくら頑張っても
感じるしあわせはいつも一時的で
増えていかないため、
自分は不幸だと思うことはあっても
自分はしあわせだと思うことが
困難な状況が続くことになります


■適切な教育を目指す

子をこのような辛い状況へと進ませず、
感じるしあわせが増えるように
育ってもらうためには、
親は「子を服従させる」という目的を
持たないこと
です。

代わりに持つとよいのが
子の社会適応能力を養うこと
という目的です。

そのためには
親子関係は良好なものに
しておく必要があります。

良好な関係にするためには
子の権利を保証することで
子が親である自分の影響を
受けたいな、と感じてもらうことです。

通常であれば
子は親の権利を保証しますから、
互いに互いの権利を保証する
理想的な関係
となります。

あとは親が
適切な教育をすれば
子は感じるしあわせを
増やせる生き方をするでしょう。

なお、適切な教育とは、
子が他者の関心事に
関心を持つように援助することです


そのためには
親が子の関心事に関心を持つことです。

親は何かと大変で
つい自分の利益ばかりに
注目してしまいがちです。

その中で
なんとか子の関心事に
関心を向ける努力をすることです。

そして対等な関係を築いて
あらゆることについて
対話による合意の形成を目指し、
さらに気持ちの通い合いを
適度にすることです。

ここが親の頑張りどころです。

親自身が
自分の親に適切な教育を
受けた経験が少なければ
それだけ子の教育には
困難を感じるでしょう。

でもそこで努力すれば
それだけ子はしあわせに
生きていける可能性が広がるのです。

子がしあわせに生きてくれたら
親として無上の喜びを感じるでしょう。

しかし、
一人で頑張るのは大変ですから
定期的に親の自分の関心事に
関心を持ってくれる親切な人に
今取り組んでいる課題の話を
評価なしに聞いてもらったり、
または訓練されたカウンセラーや
メンタルコーチの手を借りたりすることで
子に適切な教育をすることは
簡単になります。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ10年目、常楽でした。



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