”社会に過度に適応した人”とは
アルフレッド・アドラーの指摘の言葉です。

共同体の中に埋没して
自分の個性を殺して
自分に強く我慢を要求し
自分が過度な犠牲を払うことで
生き延びようとする人のことです。

しかし、
そんな過度な犠牲など払わずとも
生き延びることは十分に可能です。

共同体感覚を高める、
すなわち
感じるしあわせを増やすにあたり
「自分より相手優先」という
心の姿勢はとても効果的です。

しかしこれは
自分を犠牲にする、とか
自分に犠牲が出てもいとわない、
とかとは違います。

例えば
相手を喜ばせたいけど
どうすれば喜ぶかは
その相手の課題ですから
自分で決められません。

なのでこんなときは
”自分の好みは横に置いておいて”
相手の好みを優先することで
相手が喜ぶ可能性を高めたくなります。

自分が喜ぶことではなく
相手が喜ぶことですから、
”自分の好みは横に置いておいて”と
するわけです。

それは自分の好みが
”あってはいけないもの”
ということではありません。

これが
「自分より相手優先」という
心の姿勢です。

この姿勢が行き過ぎると
”社会に過度に適応した人”
になります。

自分の好みを否定することや
睡眠や食事やトイレを我慢したり
緊急の用件を無理に後回しにしたり
自分のために使うお金を
過度に制限したりして

過大な犠牲を出してまで
相手を優先しようとして
自分が破綻するのは
自分に対する責任を果たしていません。

つまり「自立」が崩れています。

相手の立場に立てば
過大な犠牲を出してまで
自分を喜ばせようとしてくれても
その気持ちすら
素直に受け取りづらいです。

過大な犠牲を払うことは
自分が「上下関係の下」になることで
相手を「上下関係の上」にしています。

上にされた相手が
対等で居たいと思っていたら
居心地悪くなってしまいます。

もしそれで相手が喜ぶなら
自分が自己犠牲するのが当然の
関係になってしまい、
支配者と奴隷の関係と同じに
なってしまいます。

「自分より相手優先」な
心の姿勢での取り組みは
相手と”対等な関係”であることで
力を発揮します。

それはお互いに自立していることで
お互いが調和しやすくなるからです。

お互いが調和できると
「して嬉しい」「されて嬉しい」
となってお互いに共同体感覚が
高まりやすくなるわけです。

自分に過大な犠牲を出せば
相手に喜んでもらえると感じたときは
その過大な犠牲なしに
相手に喜んでもらえる道へと
踏み出すことに
勇気を使うときです。


逆にこの場合に
「相手より自分優先」という
心の態度であったなら

「お前のためにしたんだから
喜ばないのはおかしいぞ」とか
「こんなことされたら普通は喜ぶよ」とか
「ここまでして喜びもしないなんて
どれだけあなたは失礼な人なの?」
とか言いたくなる状況です。

相手の課題なのに
自分が決めようとしている状況です。



お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ9年目、常楽でした。


勇気とは、共同体感覚を下げずに困難を克服する決意のこと
孤立感は共同体感覚を増やすと消えていく
無理な犠牲を出さない境界