■自分にかける声

忘れ物した
間違った
やるの忘れた
うっかりしてた
取り違えた
勘違いした
迷惑かけちゃった...

過去のある時点で
立てた予定と違う現在を迎えて
失敗したと理解する瞬間。
ダメな自分を見つけた瞬間。

そんなとき
「なんて自分はダメなんだ」
「なにやってんだ自分は」
「バカだな、自分」
「自分は大バカだ」
「(自分に)この役立たず!」
みたいに
失敗した自分は
どれだけ無価値なのかを
思い知らせてやると
ついつい自分を責めがち。

「私は悪いと思っています、
はいこのとおり」と
他人に罪悪感をアピールするため
でなくとも、ついついやりがち。

何か失敗すると
生存可能性が減るから
そんな「失敗する自分」は
存在してはいけないと
否定しがち。

生存可能性が増える自分だけ
いれば良いと裁きを下しがち。

自分がまるで
失敗した自分と
裁きを下す自分とに分裂して
対立しているみたいです。

失敗するつもりなんて
なかった自分と
失敗した自分を責めることで
生存可能性を高めようとする自分。

アクセルとブレーキを両方同時に
踏んでるみたいで、苦しいです。

そんな失敗した自分に
かける声を変えるだけで
状況を変えることができます。


■責めずに寄り添う

「忘れ物を防げなくてごめんね」
「間違わせちゃってごめんね」
「やるの忘れてたの
気づけなくてごめんね」
「うっかりさせちゃってごめんね」
「取り違えさせちゃってごめんね」
「勘違いに気づけなくてごめんね」
「迷惑かけさせちゃってごめんね」

ダメな自分を責めるのではなく
自分をダメにしてしまったことを
自分に謝罪する声かけ、をしてみると
今までと違った感覚を感じます。


ダメな自分を
責める自分が現れる。

でも「ダメな自分」も
「責める自分」も
「同じ自分」です。

自分は一人、不可分な存在です。

なのに一人二役やることで
事態を収拾しようとすると
自分の中に対立が生まれるので
苦しくなります。

一人だけど
一人二役やって
その役同士で対立する。

例えば右手と左手を
戦わせることはできるけど
戦って勝つのも負けるのも
同じ自分です。

「勝ち」という上と
「負け」という下の、
その上下を争ってみても
どちらも自分なので
上下関係は決着がつきません。

いくらやっても
不毛なだけです。

自分の中に
「存在してはいけない自分」
なんてそもそもありませんから。

だから
「ダメな自分」をみつけたら
それに「寄り添う自分」を
あてがってみる。

そうすることで
「失敗したくてしたわけじゃない」を
支えることができます。

そこには
「存在してはいけない自分」などなく
「どんな自分も存在している」
「どんな自分にも価値がある」が
あります。

そんな状況になると
失敗した自分は
ただ「ダメな自分」と見るのではなくて
「経験を積んだ自分」と
見ることがたやすくなります。


■足の小指

私は以前、
家具に足の小指をぶつけたりして
痛い思いをすると
そのぶつかった家具に
怒りを向けてました。

「いたいじゃないかよ!」

あんまり痛いと
そのぶつかった家具を
叩いたりして、
責めてました。

でもその状況を
客観的に見ていると、
家具はただ動かずそこに居たところに
私がぶつかってきた状況です。

なんだか申し訳ない気持ち。

そして、自分の身体も
もっと注意して動かしていれば
ぶつかることはありませんでした。

足の小指からすれば
「指示通りにしたらぶつかった」
「ぶつかることは身体によくないから
痛みで知らせてあげなくちゃ」
って感じかもしれません。

そう思うと
故意ではないにしても
結果として家具にも
足の小指にも迷惑かけたのは
「身体に指示を出した自分」だったと
思えてきました。

あるときから
ぶつかったときに
「家具ごめん」
「足ごめん」と
謝ってみたら
怒り=痛い思いをしたので
自分を守ろうとする感情が
霧散していく感覚を感じました。

ぶつかるつもりなんて
なかった自分、
すなわち失敗した自分を
ゆるす感覚も感じました。

自分は一人、
不可分な存在。

そんなまあるい感覚を
感じました。

そして
その場、その出来事に
縛られることなく
清々しい気持ちで
次へと進める感覚も
感じました。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。



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