存在の話。
存在することに
「特別」はいりません。
「普通」で良いのです。

人それぞれが
すでにユニークな存在ですし。



自分を特別に見せることを
「やりたい」と思って
するのは何も問題ありません。

例えば
目立つことが仕事になるなら
目立つことに創意工夫していくのは
自然なことです。

でも
怖れの気持ちから
「自分は特別にならねば」と
活動するのは
苦しいことです。

なぜなら
その根底には
「自分は劣っている」
「今のままでは孤立する」
などの自分を否定するような
信念があるからです。



アルフレッド・アドラーは
「普通であることの勇気」を
説いています。

普通であることには
困難を感じることがある。

その困難に立ち向かう
心の活力が
「普通であることの勇気」です。

普通の人は
「自分はあの人よりすごい」といった優越感や
「自分も〇〇ならできるのに」
といった優越コンプレックスは
持っていません。

その集団の中で「一般」、
すなわち普通でいると
注目を集めませんから、
「特別」になりたくなります。

その「特別」になる過程で
優越感や
優越コンプレックスを
使い出すことになります。

普通であるなら
それらは使わないわけです。



例えば家族。

親から日常的に
注目を向けてもらっている子は
別段「特別になろう」とは思いません。

しかしその注目が
日常的にもらえない子は
「特別にならないと注目されない」と
学び、注目を集めようと行動します。

その行動が
「特別になろうとすること」です。

特別になることで注目を集め、
仲間扱いされようとするわけです。

他人と自分を比較して
自分の方が優れている部分をみつけると
「あの人より注目されやすくなる」と喜び、
自分の方が劣っている部分をみつけると
「○○なら自分だってできる」と
思ったり話したりします。

もともと仲間ですが、
それが見えなくなっているわけです。



家族や学校、
職場や塾などの
特定の集団の中で
「普通」でいることは
勇気がいります。

注目を集めないのに
仲間と思うのは
「信じてバカを見ることに
ならないだろうか?」と
不安に思うのも無理ありません。

しかし特定の集団の中で
他人を仲間と思うかどうかは
自分の課題です。

自分で決めることです。

周囲が自分を
仲間扱いするから
自分は仲間、と感じることも
あるでしょう。

でもその「仲間扱いする」は
相手の課題です。
自分は操作不能です。

そして
自分は相手を仲間と思ったら
相手も自分を仲間と思うとは
限りません。

その相手の課題の部分である
「相手が自分を仲間と思う」が
わからないので不安を感じます。

その不安に向き合って
それを相手の課題と理解した上で
「相手は仲間だ」とするには
勇気がいります。

その特定の集団に
自分も属していると
何の担保もなしに思うことにも
勇気がいります。

そんな勇気をアドラーは
「普通であることの勇気」と
説いているわけです。



例えば家族は
何かするから家族、
というわけではありません。

もちろん家族に貢献した人は
その功績が賞賛されるでしょう。

でもそんな「特別」でなくとも
家族であって良いのです。
何も問題ありません。

「特別でないと家族になれない」と
自分が信じると
優越感や優越コンプレックスを
使い出すことになります。



私が育った家庭では
親の注目はいつも
優等生の姉か
かわいい弟へ注がれ、
私にはほとんど向けられませんでした。

当時の私は
家族と認定されてない感じで
どうにか親の注目を得ようと
必死に努力してました。

親の注目がないと
仲間扱いされてない感じで
孤立感ばかりが増えていきます。

家族ではないことは
自分は存在していない、
すなわち死んでいる状態と
感じていました。

死んでいるのに
存在として、生命としては
ここに生きています。

その矛盾を正すには
実際に生きるか、死ぬかの
どちからしかありません。

生きる、は
親の注目を得ること。

死ぬ、は
自分の命を物理的に断つこと。

自分が自由にできるのは
後者です。

でもこの身体は
生きようとしている。

存在と
家族という集団の仲間であることと
いろんなものとで
自分の中は
ごちゃごちゃに
なっていました。



親に嫌がらせをしてでも
注目を集めようとしていたので
「生きていないと
親が嫌がることもできなくなる」との
思いで、必死に生きてました。

20代で家を出て
一人暮らしをしたときです。

当然ですが
一人でも生きていけるじゃないか、と
わかります。

頭では理解していましたが
実感するのは初めてです。
実感するまでは
確信してなかったんですね。

親に見捨てられたら
生きていけないと
本気で信じていましたから。

その
「一人でも生きていける」
という実感が、大きな救いになりました。

「生きていて良いんだ」
一人、感動してました。

何も特別でなくとも
「生きる」は何も問題ない。
深いところで、理解しました。



一人暮らしをしても
家族という関係は
同じでした。

自分が「自分は家族だ」と
思うことは
誰にも妨げられません。

「一般」でも「普通」でも
所属することに何も問題ない。

姉や弟のように
親から注目されたいと
憧れましたが、
注目されないからといって
死ななきゃいけないわけでもない。

だんだん整理されていきました。



そうして整理が進むと
気づきます。

誰にどう見られるか。
そんなことより
自分が、やりたいことができているのか。
そっちの方が自分には重要じゃないか、と。

その「やりたいこと」を
やっていく途上に
特定の集団に属したいことがあるなら
その集団の利益に貢献することで
その集団への自分の居場所感を
増やしていくことができます。

「属する」ことを目的とすると
「特別でないといけない」と
感じてしまいがちですが、

実現したい目的に向けて
「やりたいことをやる」を
していく中では
「特別」も「一般」も
あまり意味を成さなくなっていきます。

やりたいことをやっていくと
人それぞれに「やりたいこと」は
違いますから、
その違いが「特別」と扱われることが
あったりするだけで、

自分自身の存在としては
「普通」で何も問題ないのです。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。


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