問題行動とは
簡単に言うと
属する共同体の人々に
迷惑になるような行為です。

家族であれば
親やきょうだいが
嫌がるようなことだったり

学校であれば
学級の人々が
嫌がるようなことです。

これをアドラー心理学では
「その人」だけの課題ではなく
「その共同体」の課題として
扱います。



私の育った家庭は
親の独裁主義の家庭です。

親が善いと思うことが「善」
親が悪いと思うことが「悪」

その親に従う人は「善」で
従わない人は「悪」とされます。

私には姉と弟がいますが
両者ともに親に従順なので
彼らは「悪」にならず「善」です。

一方で
自分の納得できないことは
親ととことんまでやりあう私は
親に従順でないので「悪」として
扱われました。



例えば
家族旅行に行きたくない私は
親に「旅行に行く」と聞かされると
「自分は行かない」と伝えます。

家族旅行に行きたくないのは
私の言うことは何も聞き入れられず
すべて親の思う通りに
進めるからです。

でも親は
家族旅行とは
家族全員で行くから
家族旅行という、と
硬く信じていたので
私だけ行かないことを
絶対に認めませんでした。

そこでモメると
結局「見捨てるぞ」と
脅されるので
行くことを受け入れざるを
得ませんでした。

私の意思や気持ちより
自分の主義の方が大切、
というわけです。



親に異を唱えると
結局は「見捨てるぞ」と
脅されます。

幼い私は
旅行先で見捨てられたら
生きていけないと信じていたので
従順にすることが
唯一の生き延びる方法だと
思ってました。

親は自分の指示通りに
家族が動くのを見て
まるで王様にでもなったかのように
楽しかったのでしょうけど。



この独裁主義の家庭に
異を唱えるべく
私は問題行動を起こします。

さすがに
親が困ることをすれば
親も気づいて
私の言うことも
少しは聞いてくれるだろうと
思ってのことです。

私を通じて共同体の課題が
表出したかのようです。

しかし実際は
家族全員から「悪」と扱われるだけで
見込んだ効果はありませんでした。

私が起こした問題行動のために
事態が滞ると決まって
「お前のせいで遅くなってる」
「みんな待ってるから早くしてよ」
などと
私だけが「悪」と扱われます。

私だけが改善すれば
家族の問題は解決する、みたいに。



振り返れば
中学生の頃に
父親からの性被害を
受け始めたあたりからは
家庭に何か問題が起きると
なぜか最初に私が疑われます。

疑うどころか
私が問題を起こしたと
見なされてました。

例えば
父親が探し物が見つからないでいると
「どこにやったんだ」と
私がなくした前提で
やりとりが始まります。

まったく覚えがないので
「知らないよ」などと
返しますが信じてくれません。

「ちゃんと教えて」
「自分でやったこと、憶えてるでしょ?」
「ないと困るんだよ」
などと言いたいだけ言うと
私が有罪で自分は無罪の構図に
満足したようで、立ち去ります。

その後に
父親自身が置いたことを
忘れていただけで
私は何も関係してなかったことが
わかったとしても
私に対して謝罪はありませんでした。

「〇〇、あそこに置いてた」なんて
ただうれしそうに
私に報告に来るだけです。



何もしていないのに
私が悪いことになってる。

便利なゴミ箱のように
都合の良い掃きだめみたいに
扱われるのが
とても嫌でした。

もし親が
私だけを「悪」とせずに
家族全体の問題が
私を通して症状として
表出した、と
解釈してくれていたら
状況も違っていたでしょう。

なぜ私がそんなことをするのか
正直に話したこともありましたが
「それは違うよ」と
決められてしまうため
伝わることはありませんでした。

いつも親は
「自分は家族みんなのことが大切だ」
と言ってました。

でもそれは
自分の王国を維持するための
奴隷はとても大切、と
言っているようにしか
私には聞こえませんでした。



課題とは
それを克服すると
感じるしあわせが
増えるものです。

そのまま放置しておくと
感じるしあわせは増えませんから
課題に着手します。

苦しい思いを
減らしたいから
着手する、と見ることも
できるでしょう。

そうして
問題行動から課題をみつけます。

すると
つい「その人」の課題として
扱ってしまいがちです。

もちろんその人の課題でも
あると思いますが
共同体として感じるしあわせを
増やしていくためには
その問題行動を
「その共同体」の課題として
扱う方が効果的です。



課題を
問題行動の「その人」だけのものとして
「その人」を変えようとすることは
「その人」をつるし上げることに
似ています。

一人をつるし上げると
他のメンバーは安心します。
自分は標的にならないから。

安心したいので
自分がつるし上げられないように
競争が起こります。

競争は優劣を競うので
上下関係につながります。

対等な関係が弱まっていくので
共同体感覚は高まりにくい状況です。

共同体感覚を高めて
感じるしあわせを増やしていくなら
問題行動を「その人」の課題ではなく
「その共同体」の課題として
見る方を選びたいですね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ8年目、常楽でした。



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