信じていることは
信じていることであって

それが事実かどうかは
わからない。

確認すればわかるけど、
確認しないで信じ続けることは
盲信、ということになる。

その盲信を
事実として伝えると
相手は謎を抱えることになる。

だから、伝えるなら、
信じてることは
信じてることとして
確認した事実なら
事実として、伝えたい。



幼い頃、親に言われたこと。

「新品は、夜じゃなくて
昼間の明るいうちに
おろす(開封する)ように
しないといけない」

「水にお湯を入れてはいけない」

「写真に3人で写ってはいけない」

「本を踏んではいけない」

「間違って本を踏んだら頭の上に
乗せなければならない」

「枕を踏んではいけない」

「親の言うことは
きかないといけない」
「親も間違うことがあるから
そのときは許さないといけない」

「他人は信じてはいけないけど、
親は信じなくてはいけない」

「お茶漬けは朝に食べてはいけない」
「お茶漬けは昼に食べてはいけない」
「お茶漬けは夜に食べてはいけない」(笑)

その他いろいろと
「〇〇はいけない」と
言われました。




親が大好きだったので
はじめはそのまま疑わず
信じてました。

でも、成長して
それを禁止すると
何が起きるのかがわからずに
「なんでいけないの?」と
聞きました。

そしたら
「自分もそうしてきたから」
だそうです。



納得できないので
「やったら何が起きるのか?
禁止するとどんな恩恵があるのか?」
と訊きました。

あれこれやりあった最後には
「そんなことわからないよ!」と
開き直り。

ああ、こんな態度では
信頼がなくなるのも、当然です。



そして、謎が増えると
それだけ生きづらさが増えます。

普段の日常に
あまり登場しないことなら
影響は少ないですが、

例えば「新品のもの」は
日常によく登場します。

それを見るたびに
その謎が発動するので
謎をもっていない人よりも
心の負担が多くなってしまいます。



でも、もし、
それら全部に「~と私は信じてる」と
話すことができていたら
違ったでしょう。

例えば
「新品は
夜におろしてはいけない。
明るい昼間のうちにおろす。
そう、私は信じてるよ。」

「水にお湯を入れるのは
なんでかよくわからないけど
悪い感じがするから
しない方が良いと
私は信じてる。」



信じてる、をつける前より
受け取りやすいですよね。

自分は〇〇と信じている、と
話してくれることは
聞いてる自分が信じるか否かを
選べる自由を感じさせてくれます。



もし
その根拠がわからなければ
一緒に探したり調べたり考えたり
できますね。



大上段から振りかぶって
ダメだと命令して
ダメとするその目的を
確認することを禁止すれば、
相手を思い通りにできそうですよね。

この場合、
その二人の関係は
良好な方へは流れて
いかないですね...

お互いが
お互いを縛り付けてるような
そんな苦しさが増え続けていきそうです。



今では
親が言ったこと
イコール事実、でないことは
わかります。

わかりますけど
たまに不安を感じるときがあります。

この新品を夜に開封してしまった。
何か起こるのかな...?と。

もう、これ、呪いかも。



相手の心の負担を増やして
自分の何かの欲を満たそうとするのは
相手の犠牲のおかげで得られた快楽です。

少しの犠牲や
一時的な犠牲なら
回復できますし、
その後、
そこまで尽くした/尽くされたから
絆が深まったりするかもしれません。

でも、犠牲が日常的になったら
その関係は、つらいですね。



相手に伝えるときは
盲信のまま突き進まずに
その根拠まで伝えられる自分で
いられるように、したいですよね。

とくに、親子の間なら
子の生涯に影響するかもしれないので
親は気を付けて子に接してあげたいですね。




お読みいただき、
ありがとうございます。

プロコーチ7年目、常楽でした。



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