小さな町の小さなお寺のお坊さん
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望月泰彦著「そのままで大丈夫」(太陽出版)から
僕の思いを混ぜながら紹介したいと思います。
「周利槃特」(しゅりはんどく)
お釈迦様の弟子に周利槃特という者がおりました。
彼は弟子の中で一番物覚えが悪く、
自分の名前さえ忘れてしまうほどでした。
他の弟子たちからバカにされていた周利槃特は
自分のダメさ加減が情けなくなり、
お釈迦さまに
「私はあまりにも出来が悪いので、ここにはもういられません」
と言いました。
その時にお釈迦さまは諭すようにおっしゃいました。
「自分を愚かだと思っている者は、愚かではない、
自分のことを賢いと思いこんでいる者こそ、
本当は愚か者なのだ。」
そしてお釈迦さまは、彼に、修行として掃除を
することを課しました。
さらに、掃除をしながら「塵を払い、垢をのぞかん」と
称えるように言いました。
周利槃特はお釈迦さまに言われた通り、一心に掃除をしました。
一年が経ち、二年が経ち、気がつくと何十年という時が経っていました。
それでも彼は、お釈迦さまを信じて、この修行をひたむきに続けました。
最初はバカにしていた他の弟子たちも、しだいに彼を認めるようになりました。
そして或る日、彼は、掃いても掃いてもいっこうになくならない
この塵と垢の姿こそが、
人間の中にある煩悩そのものだということを悟ったのでした。
そして、これこそが第一の悟りの境地であり、
この修行を一筋に貫いた周利槃特は、
誰よりも早くこの境地に達したことを、お釈迦さまに
認めていただいたのです。
世の中には、
何をやっても人よりも劣っている人間、
何をやっても不器用な人間 が存在します。
それは、先天的なことがくるものが強く、
どうにかしたくても、どうにもならないものです。
かくいう私自身が修業時代も劣等生でした。
そんな不器用な自分が嫌いな時期もありました。
しかし、どうあがいたところで、
それが、ありのままの自分の姿であり、
それを、受け入れて生きていくしかないのです。
だからこの周利槃特の話は、
まるで、自分のことのように思ってしまいます。
このお話は、私のような不器用な人間の模範
となるものです。
確かに目の前の現象だけにとらわれてしまうと
人生が嫌になってしまいます。
嫌なことが毎日のように続けば、
誰だって、そこから逃げたくなります。
しかし、
つらいから逃げるのではなく、
逃げるから、よりつらくなるのです。
不器用でいいんです。
人より劣っていたつたいいんです。
それがどうしたっていうんですか!
上手くいかなくてもいい。
人間、苦しんだ数だけ成長しているんです。
挫けそうになった時こそ、
己の内面を磨く最大のチャンスなんです。
その経験こそが、のちのち人生の宝となるんです。
才能がなくていい!
能力がなくていい!
仏さまは、あえてそういう試練を与えてくださったのだと、
私は、信じています!
僕が日々、人間関係で悩み苦しみ続けているのに
そして人間の生き方について考え、
自分のダメさ加減、愚かさに嫌気がさしているのに
僕を悩ませる人は、何も考えてないの?
自分を見つめ直すことはないの?
自分は悪くないと思い続けてるの?
自分の生き方が恥ずかしく思うことはないの?
と不思議になることがあります。
でも、そう思うこと自体が自分の傲りであり、
煩悩であり、愚かなところなんですね。
そういう意味もあって、
僕も周利槃特の話は、
まるで、自分のことのように思ってしまいます。
事実、僕は頭も良くないし、覚えも悪い。
スポーツもできる訳でもないし、
容姿が良い訳でもない、
なんの取り柄も無い。
人の心さえ判らず、知らず知らずの内に
人を傷つけていることの方が多いかもしれない。
僕に出来ることは、
僕の周りにいる人が幸せになるように、
大きなことはできないけれど、
小さな幸せを感じられるように、
あ~、僕と知り合えて、
出会えて良かったなと言ってもらえるように
コツコツと前に進むこと。