クリスマス | 1級フードアナリスト ユピロ菌の迷える子羊達へ

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悩んでいたときに救ってくれた言葉や料理をおすそ分け。仏教に自分で掛けた首輪は自分でしか外せないという言葉がある。悩みを解決してくれるのは宗教でも他人でもない。自分自身でしか解決できない。

クリスマス・イブですね。

このBlogでも毎年、クリスマスについて

シスター渡辺和子さんの著書から思うことを

紹介してきましたね。

2009年「祈り」 ↓

http://ameblo.jp/yupirokin/entry-10403656123.html

2011年「クリスマスの心」 ↓

http://ameblo.jp/yupirokin/entry-11077029588.html

2012年「現代の忘れ物」

http://ameblo.jp/yupirokin/entry-11367434999.html


 


今年もやはり渡辺和子さんの著書から

紹介しようかと思います。

PHP「目に見えないけれど大切なもの」より

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クリスマスというと、楽しい面が強調され過ぎて

いるように思います。大人もこどももこの日を

楽しみに待ち、「メリー・クリスマス」と挨拶を

交わすのが常です。

しかし本来、クリスマスは”喜び”の日なのです。

楽しみと喜びは似ているようで、決して同じもの

ではありません。ゴルフや旅行は”楽しむ”ものですが、

それ自体は”喜び”ではないのです。

中略

さて、クリスマスですが、、その本質は喜びの日です。

私たち人間どもが神に対しておかした罪を、

私たちに代わって償い、許しを得させてくださる救い主が

お生まれになって「よかった」と喜ぶ日なのです。


 


PHP「信じる「愛」を持っていますか」には

こんな話が書かれています。

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日本に数十年、宣教師として働いた一司祭が

話したことである。

クリスマスも近い頃、教会は平常に倍しての

忙しさであった。

その合間を縫って数百枚のクリスマスカードに

ようやくサインだけして友人たちに送り出すのが、

その司祭にとっては精一杯のことだった。

数日後、自分宛に届いたカードに目を通していた司祭は、

一枚のクリスマスカードを読んで思わず襟を正す思いを

させられたのである。

それは一人の幼い少女からのものであったが、

その文面には

「神父さま、きれいなカードありがとうございました。

でも、サインだけしてあって、お言葉がなかったので、

つまりませんでした」と書かれてあった。

言葉を添えるということは、心を添えるということである。

年賀状、結婚通知、転居通知に一筆添えてあるのと

ないのとでは、送った人の人柄が偲ばれようというものだ。


 



人間の罪の許しのためには、「許す」と印刷したカードに、

「神」とサインするだけでも事足りるはずであった。

しかしながら、愛の神は、人間の救いに「みことば」を

添え給うたのである。

みことばは人となり、私たちのうちに住み給うた。

愛する時、人は相手の世界に身を置いて、

相手と一体化、同一化することを願うものである。

幼児と話す時、よい年をした大人が「オイチイ」とか、

「チャムイ」と問うたり、話したりする。

これが「お味はいかがですか」とか、

「お寒いですね」としか言えない大人であったとしたら、

それは、自分の世界を一歩もでようとしない、

幼児の世界に入り込もうとしない人、

つまり幼児を愛し得ない人であろう。


 


今日、この日を

人を恨むことなく、

穏やかな清らかな心で

キリストの誕生を喜び、

心を添えて、

貴方の幸せを願って

一日を過ごしたいと僕は思います。


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