「源氏物語」のイメージ | yunnkji1789のブログ

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新大河ドラマ「光る君へ」は、源氏物語の作者紫式部が主人公だ。久しぶりに図書館に行って検索してみたら、源氏物語や紫式部関連の本が根こそぎ貸し出し中になっていた。

源氏物語は、やはり日本の古典文学の最高傑作の一つだと思う。

その源氏物語を日本人自身が再注目してくれるのは本当に嬉しい。


日本は600年以上に及ぶ武家政治という東アジアでは特殊な政治が続いたお陰で良くも悪くも個性的な文化が育まれた。文芸に関しては平家物語に代表される、身体性の非常に強い秀作が沢山作られる。

しかし、その前に、平安後期に仮名文字による王朝文学が花開いたからこそとは忘れてはいけないし、その集大成が源氏物語である。



以前「どうする家康」の脚本兼原作者の古沢良太氏が、最終回で源氏物語と吾妻鑑を並べて映した所に、彼なりの歴史物に対する一種の姿勢を表していた可能性を示唆した。あくまで私の解釈だが。

リアルなフィクションと捏造だらけのノンフィクションという2つを提示することで、「そもそも歴史なんて事実はわからないだろう」という、一種のアンチテーゼを示しているのではないか、と述べた。

私は大河ドラマは大好きだが、実は、そこまで史実には拘らない。所詮はドラマだ。

それよりは、その時代の空気感を切り取ることが大事だと思っている。史実に忠実であることは、時代考証の正確さと同様、あくまでそのための演出にすぎないと考えている。


大河ドラマの解釈は置いておいて、そういう仮説が成り立つほど、源氏物語はリアルなのだ。

しかし、現代人が読むと、そのリアルさがなかなか伝わらない。

生きている環境によって物事の捉え方が違ってくるということは、前々回、「ウクライナはナチスか」でも述べさせて頂いた。


例えば「源氏物語」という題名ですら、パッと聞いてどんなイメージを持つか。

私達の時代は、「源氏名」という言葉があったり「光GENJI」が一昔前にブレークしたり民間に受け入れられていて、すでにイケメンの女たらし物語、ハーレム物語、というイメージが刷り込まれている。

江戸時代も同様で、女たらし物語として面白おかしく受け入れられて、偐紫田舎源氏みたいな物語が広まったりした。

しかし、そもそも源氏とは何かという話になる。

源氏とは源頼朝、源義経のあの源氏である。

私達は勝手に源氏=武士だと思い込みやすいが、偶源氏出身の武士化した一族が有名になっただけで、基本的には貴族である。しかし、普通の貴族ではない。

天皇が即位すると跡取りの東宮が選ばれる、その兄弟たちは、次の東宮候補として残るが、それもできない子どもは、僧籍に入るか、臣籍降下と言って一般人になる。その時に、源の氏が与えられる。

本来は天皇にすらなれた人で、別格なのだ。

大河ドラマでも左大臣源雅信(益岡徹)が、上昇志向の塊のような右大臣藤原兼家(段田安則)を尻目に余裕な姿を見せるが、あれはそもそも藤原と源では格が違うからかだ。

当時の最高法規である養老律令によれば、天皇を除けば左大臣が最高権力者になることになる。実は雅信が一番エライのだ。摂政関白は令外官である。



しかしそれは臣下の話であって、本来は天皇の子孫だったんだから、右大臣やら左大臣やらなんて言う下世話な権力闘争とは別次元だったはずの人なのだ。

そして天皇家側からしたら競争に負けた、負け組になる。


二部リーグで一番強いと言っても、元々二部リーグ強豪チームと違って、一部リーグから転落してきたチームでは愁いを感じるものだ。


天皇家に限らず、当時の貴族たちの跡目争いで一番重要になるのは、母親の実家がどれほど権力を握っているかだ。

その点、光源氏は完全に落第だった。


当時の社会で生きている人には、「源氏物語」という題名には、このような必ずしも勝ち組とは言い難い、世の中の悲哀を思わせてしまうのだ。


当時の一般的な価値観として、人間性は位の高さに比例すると思われていた。だから天皇家であれば実際にはどうであろうと、文句なしに立派な人だとみなされ、つまり「源氏」と聞けば、それだけで「本当は素晴らしい方なのに、運悪く落ちぶれてしまった」というイメージが湧き、「なぜ落ちぶれたのだろう」「どんな風に巻き返すのだろう」という想像が膨らむのだ。そして、単なる恋愛小説ではなく、政治小説としての側面が感じ取られる仕組みになっている。