障碍や重度疾患等を抱えるいわゆる“社会弱者”への公的な福祉や支援というものは、
何かと不正利用の標的になりやすく、そのくせ本来それを必要とする人たちに限って十分な
恩恵に与れず、結局“声の大きいヤツだけが得をする”状況は今も続いています。
また、それが「必要だ」という認識や理解も、昔ほどではありませんが中々進んではおらず、
それどころか不正利用なんかの問題が発覚すればすぐに突き上げを喰らってしまいます。
それらの原因は一体どこにあるのでしょうか?
個人的な所見を書いていこうと思います。
『周囲の無知や無理解』として片付けてしまうのは簡単ですが、当事者以外の全てを
悪者扱いにして歩み寄ろうともしない一方的な主張が感心出来ないのはもちろんのこと、
それだけでは不正利用の標的にされることの説明がつきません。
もっと他のところに原因があると考えています。
突き上げを喰らうのは「あいつだけズルい」と思われているからですが、
それをネガティブな感情として強力に排除しようとするのも芸がありません。
ネガティブだろーがなんだろうがあるものは“ある”んです。
それに何でもかんでも「あいつだけズルい」なんて思われているわけではないので、
排除しなければいけないものがあるとしたらまずは発生の“条件”に対してでしょう。
ここでは分かりやすさを優先して「あいつだけズルい」なんて乱暴に言ってますが、
その感情それ自体は社会的不公平・不公正を批判する原動力のひとつとして機能する
側面もありますので、一概に悪いものだとは言い切れません。
どこで見たのか昔の話なのでイマイチよく覚えていないんですが、もしかしたら
内閣府のページだったか分かりませんがとにかく社会弱者への福祉や支援について、
理解を促すような表現として「眼鏡をかけるように」という言葉を見たことがあります。
なるほど確かに眼鏡をかけても「あいつだけズルい」とは誰も思わないでしょう。
社会弱者への支援がそのように受け取られれば突き上げを喰らうこともありません。
ただしそれは“眼鏡をかけるように”出来ていればの話です。
眼鏡は、度が合わなければ他の人に使うことは出来ません。眼鏡利用者同士であってもです。
眼鏡をかけることが「その人には必要なことだ」と認識されているのは、長い啓蒙の歴史が
あったからではありません。“他の人には必要ではない”…というよりもう一歩踏み込んで
言えば“役に立たない”からです。
看板や写真立てが見えているのと反対側から支えられるように、
「○○さん以外には役に立たない」からこそ
「○○さんにはそれが必要だ」と認められるわけで、
眼鏡をかけることは、いわば背理法的な論理によってその必要性が証明されているわけです。
しかも“他の人には役に立たない”ことは、それ自体が不正利用のタダ乗りを締め出し、
本当に必要とする人たちへの振り分けを可能とするフィルターの役割も果たしてくれます。
それと同時に“あとは自分で何とか出来る”というのも要因のひとつとして考えられます。
眼鏡利用者が『眼鏡をかける』以外のことで、誰かの手を煩わせることがあったでしょうか?
“他の人には役に立たない”
“あとは自分で何とか出来る”
これらを社会弱者への福祉や支援の具体的な手段として考えると、おそらくこうなります。
すなわち、
手足が無ければ手足を生やし、
目が見えなければ見えるように、
耳が聞こえなければ聞こえるように、
社会生活に必要な知能や認知が足りないのであれば必要なだけを付与・増強し、
周囲との余計な摩擦を引き起こすような思考ルーチンは問題が表面化しないように調整する、
こんなとこでしょう。
これらはすでに人工内耳や性転換手術として、段階的にですが一部実現しつつあります。
『アルジャーノンに花束を』では結局元に戻ってましたが、勤め先で急に冷遇されるのも
含めて作者の都合による作為であって、あの展開には何の必然性もありません。
サイボーグかクローン技術か最終的にどうなるかは分かりませんが、仮にもしこれらが完全に
実用化されたとして、社会弱者への福祉や支援の一環としてこれらの施術に国から補助金が
出るとしたらどうでしょう?もちろん税金で賄われるという点では、従来と何も変わりません。
もちろんそのことで、オリンピック金メダル選手並みの身体能力や、東大入試で満点が取れる
だけの知能が獲得出来るわけではありません。
想像してみて下さい。すべては平均的な範囲内での調整です。
少しでも「あいつだけズルい」なんて考えが湧いてくるでしょうか?
もちろん現状ではそんなことは出来ません。『眼鏡をかける』どころかむしろ
『下駄を履かせる』ようなえこひいきしか出来てないのが現状です。
「邪魔だからとっとと死〇ね」なんて言えない以上は他にやりようが無いから
特別に認められているだけで、他にやりようがあれば突き上げを喰らうのは当然です。
そもそものやり方自体が“下駄を履かせるえこひいき”だからです。
“声の大きいヤツだけが得をする”のも、そこに原因があります。
常識的なモラルがあれば、えこひいきされることへの“遠慮”と“感謝”は欠かしません。
えこひいきされていることを自覚しながらそれを当然のものとして受け取るのは、
よほど面の皮が厚くなければ出来ることではありません。
声がデカくなるのもいい歳こいて自分を『姫』とか言ってるのは無理も無い話だったりします。
これらの主張を踏まえた上で、同じことが起こらないとも限らないのでたとえばの話ですが、
どっか行くのにロクに下調べも手配もせず、車椅子用の設備の
整った大きな駅からそこまで楽に行ける方法を提案されている
にも関わらず、その隣の無人駅で降りることに執着し、それを
やんわり断られたのを「乗車拒否された」なんて言ってゴネてる
車椅子がいたとしたらどう思います?
もちろん結果は同じ車椅子ユーザーからも批判され、97%の不支持を獲得したわけですが、
他にやりようがあったのだから当然です。
無人駅を利用出来ないことを「不自由」とか言ってるのは詭弁以外の何者でもありません。
わざわざ不便で不自由な方を“自由に”選ぶのであれば、それに伴う“責任”はもちろん
自分で引き受けなければならないのは、障碍者も健常者も同じことです。
ちょいと脇道に逸れてしまいましたが、要するに社会弱者への公的な福祉や支援は、
他にやりようが無いから“下駄を履かせるえこひいき”になるのであって、最終的な最適解は、
いわば“人間のレストア”とでも呼ぶべき方法に落ち着くと考えています。
もちろんそれにもいくつかの欠点があります。
〈続く〉
↓必然性の無い冷遇と再びの知能退化
↓車のレストア