「眼鏡をかけるように」と言うけれど・後半 | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

前半

 

障碍や重度疾患等を抱えるいわゆる“社会弱者”への公的な福祉や支援の現状は、
眼鏡をかけるところか“下駄を履かせるえこひいき”にしかなっていません。
他にやりようが無いから特別に認められているだけで、何かと厳しい目で見られるのも
不正利用の標的にされるのも、声のデカい厚かましいヤツだけが得をするのも、
理解が進んでいないからではなく、そもそものやり方の問題です。
“下駄を履かせるえこひいき”を当たり前だと思っていればそりゃ人格も歪みます。
それこそ自分を『姫』なんて言っちゃうくらい余裕です。

 

 

手足が無ければ手足を生やし、
目が見えなければ見えるように、
耳が聞こえなければ聞こえるように、
社会生活に必要な知能や認知が足りないのであれば必要なだけを付与・増強し、
周囲との余計な摩擦を引き起こすような思考ルーチンは問題が表面化しないように調整する

…「あいつだけズルい」と思われたくないのであれば、障碍者や傷病者、健常者による優先順位の
区別も無く全員が等しくその恩恵に与
れるようにするか、あるいはそれこそ眼鏡をかけるように、
他の人には役に立たない”“あとは自分で何とか出来る方向で考えるしかありません。
そうすることで自分たちが納めた税金の一部が使われたとしても何も反発されないどころか、
本当に必要とする人たちのためだけに振り分けることが可能となります。

社会弱者への公的な福祉や支援の最適解は、最終的に“人間のレストア”とでも呼ぶべき
方法に落ち着くと考えていますが、それにもいくつかの欠点があります。
といってもここでは技術的な要因による問題は、全て解決・解消したものとして扱います。

その上で一体何の欠点があってどんな問題が起こるのか?もちろん想像の域は出ませんが、
可能性はそれなりにあると思ってます。

まずレストアといっても、障碍や症状の度合いよってはどうしても規模がデカくなります。
そうなると果たして原型を留めていられるかどうかは怪しいもので、場合によってはその人の
在り方そのものを変えてしまうようなやり方は、障碍や病気に意味をこじつける精神論と、
真っ向から対立することになります。

その昔、Eテレの福祉系番組で「障碍が無くなる薬を飲むか?」みたいな話を見たことが
ありますが、構成がいかにも「障碍は個性」の結論ありきで反吐が出ました。
もちろん自分ならそんなモンに飛びつくことはしませんが、それは「個性だから」ではなく、
「“障碍が無くなる”という表現が信用出来ない」からです。

全人類が自分と同じになっても

障害は無くなりますからね。

ですからたとえば自分に腕が無くて「腕が生えてくる」と言われれば迷わず飲みます。
不便や不自由が解消されるなら“個性”に未練はありません。

あとは自身の障碍を売り物にしてのし上がって来たような人たちからの反発も予想されます。
乙武に手足が生えたのとかを想像すればピンとくるはずです。

とはいえ、対立や反発はあくまで一時的なものとなるでしょう。
自分の子供に障碍や難病を抱えて生まれてきてほしいなんて願う親はどこにもいません。
たとえそれが障碍者自身であっても、自らの利己心による考えであったとしてもです。
どう足掻いてもいずれは頼らざるを得なくなるでしょう。

しかしそれで八方丸く収まるわけでもなければ“障碍”が無くなるわけでもありません。

そもそも“障碍”というのは、たとえば光の届かない洞窟や深海に棲む目が見えない生物の
それを視覚障碍とは言わない
ように、あるいは人間以外での知的障碍なんてのを誰も聞いた
ことが無い
ように、その人だけの問題ではなく、周囲の環境というか“求められていること”との

兼ね合いによって発生するものです。

ですから1人の人間の身体(パーツ)や思考(ソフト)をいくらいじくってみたところで、
昨日までの健常者が明日から障碍者となる可能性が完全に消えるわけではありません。

それどころか“ソトの力で解決する”やり方が当たり前になれば要求はどんどん増大し、
しまいにはIQ200以下の知的障碍とか100m走で9秒切れない運動障碍
なんて冗談抜きで言われるようになるかもしれません。
ちなみに現代の日常生活で必要とされる知能は数値に置き換えると100からだそうで、
『人類最速の男』と言われたウサイン・ボルトの100m世界記録は9秒58です。
 

それともう1つ、身体(パーツ)のすげ替えはともかく頭の中身をいじくるようなやり方は、
権力や体制によって確実に悪用されます。
むしろ悪用されることが前提でしょう。


レストアと改造を区別するには何より“人間の能力の限界”を見極めること、
そして不正を食い止めるには一切の例外を認めない徹底した情報公開が必要です。
たとえ頭の中をいじくられても、以前の状態を本人が自覚出来るようにしないといけません。

なんだかだいぶ横道に逸れてしまいましたが要するに
えこひいきされてることに「合理的配慮」もクソも無いってことです。
それと自分の都合で誰かにナニかしてほしいことがあるなら
それなりの態度や作法や手続きが必要なのは、障碍者も

健常者も社民党の常任幹事であっても同じことです。

誠心誠意の対応に「ありがとう」も言えなくなったら人間としておしまいですね。

 

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