(再録)人死に展開での見分け方(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

思わせぶりな詐欺の駄作に引っかからないためには、ダメなものはダメなのだと、
周りに流されることなく是々非々の姿勢で臨むことが肝要です。
そして良いものとダメなものとを見分けるためには、何が良くて何がダメなのかを
判断するための客観的な指標や軸を、自分の中に持っていないといけません。

そのためにまずは、詐欺やペテンの手口を知ることから始めるのが良いかと思います。
ただ予め断っておきますが、可能な限り論理的に筋道立てて書くことはあっても、
それが正しいかどうかは保証の限りではありません。批判されたくないオタクの
想定問答集に頼ることなく、ここに書いてあることを自分の言葉でキチンと突っぱねる
ことが出来るのであれば、それ自体が自分の“軸”になってくれます。それで十分です。

客を釣る詐欺の手口として用いられるものの一つが、
一般的な表現かは知りませんが、いわゆる(?)『人死に展開』、登場人物の死です。

登場人物の死は、読者あるいは視聴者にとって、絵的にも物語的にもショッキングな
出来事であり、強く印象に残るものです。それが自分のお気に入りだったりして、
その物語にも深く感情移入していればなおさらです。

誰か死んでりゃずいぶんとハードな作風で、そういうのをありがたがって、
それに入れ込む自分はなんて目の肥えた特別な人間なんだろうと、そう思うことでしょう。
人に自慢するためのファッションとして作品鑑賞をダシにする、オタクのような半端モンの
下等生物の間では、特にその傾向と習性が認められます。

ですが人死に展開に入れ込むのは、とても危険なことです。
そういうのをありがたがっていると、とんでもない詐欺に引っかかる羽目になります。

作者にとってキャラを死なせるのは、実は簡単なコトです。
極端に言えば次のコマでハイ死んだ、それだけで済む簡単なお仕事です。
作者は作品世界の神ですから、そこら辺は思いのままです。

そんな手抜きするわけねーだろって?
ちゃんと展開考えてやってるに決まってンだろって?


確かに作者がまともであれば、雑な手抜きなんかしません。
でもそれは、ハンパなものは作りたくない作者自身のプライドや、
クリエイターとしての矜持、ある種の不文律によって支えられたものであり、
それ自体は決して、無条件で信頼出来るようなものではありません。
オタクのエサには特に期待出来ないことです。

人は楽をしたがる生き物ですから、簡単なお仕事なんかで客の興味と関心が
引けると分かれば、それを利用しようと考えるのは誰でも当然のことです。
ましてやそれが人気に左右される水もの商売であれば尚更、
何かの拍子に悪魔の誘惑に負ける瞬間があってもおかしくありません。

でもだからって誰も死ななけりゃいいとかそういう問題ではなく、
明らかな手抜きであるにも関わらず、それでも支持が得られるような状況が続くことで
「死なせときゃいーんだろ」と、作者の考えが次第に安易な方向へと向かい始めるのが
マズいのであって、そうなると話の展開そのものがどんどん雑になっていくのは明白です。

ですから要するに、誰かを死なせるのに作者が楽をしてなければいいわけです。

作画や演出の技術的な手間ひまをかけて、丁寧かつ丹念にキチンと描けているかどうか?

エログロに類する表現がそもそも禁止されている(例、児童書)中で
いかにして“それ”を匂わせ伝えるか、そのための工夫が凝らされているのか?


そこに到るまでの“理由”や“必然性”が、物語の中で明確に示されているか?

とりあえず考え付くのはこんなトコでしょうか。
これらを判定基準として踏まえたうえで、あとは作品のジャンルだとか発表の場によって
想定される客層とのマッチングといった作品毎の要因を考慮し、柔軟に微調整を重ねながら
適用していけば、手を引くタイミングを測るのに多少は役に立つかと思われます。

ホラー作品として世に出たならば、まずはビビらせてブッ殺すのが第一義であって、
しかもB級の低予算に緻密な構成まで期待するのは贅沢が過ぎるというものです。
高度な技術で徹底的にやり抜いてくれれば、展開の雑さも多少は目をつぶってやれます。
逆に絵が達者でなくとも卓越した構成力を武器に、死に至るまでの過程を必然性を持った
因果関係によって描き切った『寄生獣』のような傑作もあります。

あと個人的に人死に展開の最適解として挙げたいのが『ジョジョの奇妙な冒険』第5部、

ナランチャ・ギルガ(体はジョルノ)の、あまりにもあっけなさすぎる最期です。

単行本62巻より

今にして思えば死亡フラグだったセリフのあとにハイ死んだ、となった彼ですが、
狙われた理由はキチンと劇中にて説明されています。
そして1番重要なのは、あっけなさすぎる彼の死が無意味ではなかった、ということです。

ナランチャの死によってひと足先に元の体に戻れていたからこそ、ジョルノは
レクイエム消滅の影響を受けることなく機先を制することが可能だったわけで、
ブチャラティの決死の覚悟が功を奏したのも、その伏線があればこそです。

↓詳細は自分で買って確かめよう

 

もちろんこれはただの結果論なのかもしれませんが、別の著作の中でも語られているように、
何の脈絡も伏線も無く降って湧いた“偶然”によってピンチを切り抜けるような展開を
良しとしてこなかった
作者の信条が導いた“必然”と、言えるのかもしれません。

↓ちゃんとそう書いてます

 

これらがキチンと出来ていなければ、男女の描き分けも満足にやれないヘタクソが、
何の意味も理由も必然性も無くただグチャグチャ死なせるだけの下品な出来損ないを、
然るべき発表の場にて下される正当な評価からも逃げ、場違いな土俵に上がって垂れ流す
露悪趣味の産業廃棄物を、「s」や「し」を入れるだけで勝手に出て来る

サジェスト汚染不自然なコラボ企画のごり押しで人気を捏造するしかないわけです。

講談社への抗議不買は自分のライフワークとして、
残りの人生のすべてをかけて続けていく所存です。


・作者にとって人死は簡単なお仕事、
 ただ死んでりゃそれだけでホイホイ釣られて有り難がるのは
 幼稚な証拠、見てる俺かっけー自慢はイタいから卒業しよう


・不快にならないよう気を遣ったり、納得するしかないくらい
 徹底的に描いたり、因果関係含めて物語上でシッカリと
 理由づけや説明が為されていなければ、ただ展開が雑なだけ


とりあえずデスゲーム系の作品には

近付かない方が賢明です(というか逃げろ)

〈終わり〉