押熊八幡宮
奈良県奈良市押熊町287
左に見える赤い鳥居。
この先は、稲倉魂命をまつる稲荷神社。
八幡神社の由来
押熊町287番地にある、現在、押熊町の宮座に保管されている古文書に文禄15年「八幡宮四座次第押熊座衆」享和5年「八幡宮四ツ座次第」文化10年「八幡宮四座次第預張」天保7年「宮座諸事目録控」などがある。
八幡神社の現在の行事は中山町とほぼ似ているところからすると八幡神社は元禄の頃に中山から押熊に分霊勧請されたことがうかがわれる。
なお八幡神社の境内の西北に八大龍王をまつる龍王神社がある。
社殿は流造、参道から社前にかけて大正14年(1925)2月氏子より奉納した石鳥居、天保2年(1831)と享保6年(1721)「八幡宮忍熊村」と刻名の石灯篭が明治12年11月・昭和18年の銘のある石灯篭各一対、それに明治12年氏子より奉納した石の狛犬がある。
境内には豊玉比古命をまつる龍王神社、武甕雷武神をまつる鹿嶋神社、稲倉魂命をまつる稲荷神社、市杵嶋姫をまつる市杵嶋姫神社や遥拝石などがある。この宮座は天保年間「宮座諸事録」に詳しい(民族編纂者)
三社の祭神は、武甕雷武神・木花咲耶姫・市杵嶋姫。
このほか笹尾正作氏の話しによると明治維新当時まで境内に宮寺「フクジュウ寺」があった。現在境内の東西隅地がその寺であるという。「和州御領郷鑑」にも「福成寺」が記されている。この寺に安置されていた十一面観音菩薩像は現在、西方寺に町所有として寄託している。この神社の南隣に接する一部の土地を「ジョガキ」という。障子垣のことで結界を示したものであろう。
押熊町の西之谷にある境内は約220平方メートル、径16メートル、高さ2メートル余りの円墳で周囲三方をセメント造堀で囲んでいる。
古老の話しによると、この古墳は忍熊王子の古墳として往昔から奉斎して来たと伝えているのが明らかでない。
社殿は古墳の頂上中央に南面し、小さな石宝殿となっている。
忍熊王子については「日本書紀」にくわしく記されているが、長文にわたるので要解する。
押熊という地名は古くは忍熊と書かれたが民俗的な方面からするとクマは隅をさす言葉である。
この地は大和の国からという最北端の地で大和平野の北の隅にあたる土地で土地柄オシクマ(押熊)という地名が生まれた。
こうした地名と忍熊王子と結びつき忍熊王子をここにまつるようになった。
現在山陵町の山地に「石のカラト」と称するところがある。「奈良市史」(考古学)によると奈良時代に 近い頃の造営と考えられる。
毎年四月十八日に忍熊祭が行われる。
石のカラト古墳は平成元年に現在奈良市神功1丁目4-159番地公園の場所にある。
「ここは昔、忍熊王が治めていた!」という主張を、八幡宮が認めるわけにはいかず、「〜ということにしておいてね」って言ってる感じがヒシヒシと伝わって楽しい☺️
別件で他の人と話したのだけど、日本書紀の書き振りも、本文がありながらも別の説を色々書いてくれている。
総合して読むと本文の方がおかしいよね?ってのもある。
こういう事にしておきたいっていうのだけを残してあとは全部抹消しつくしてしまうってのを、日本はあんまりしてきてないと思うんだよね。
宗教面がすごくそう。
別の神様を信仰している場合、「あなたの神様と私の神様って同一なんだよ」って戦法をとっているのが多々見られる。
こういう、曖昧さとおおらかさが日本人らしさだし、王朝が世界一長く続いている理由だと思う。
なお、私は行ってないのだけど、石のカラト古墳について↓
https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/5834/1/BN07597982_004_013.pdf
「石のカラト」の名の由来は諸説あり、「日本書紀」にみえる忍熊王子が戦のさい、石を集めて造った石畳の跡とか、石室に投げ込んだ石がカラカラと音をたてるからとか言われるが、カラト=唐戸であり、この古墳は古く盗掘にあって石室が開日しており、石室が大きく立派なところから起った名であろう。
とある事から、忍熊王子に関係あると考えられていた古墳で、だけど造られたであろう時代が違うよって話みたい☀️